教会報第184号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父
  


前回は、母の看取りの体験を書きました。ところで、聖書には復活された主キリストのことは書いてありますが、主キリストの再臨までの間の居場所については詳しく書かれていません。私たちの信仰は、生きている人のためのものだからです。
そこで、皆さんへの質問です。
皆さんは、子供の頃、あるいは、大人になって、色々な仕方で主イエス・キリストに出会い、救われたり、解放された経験をされて教会にお越しのことでしょう。また、カトリック教会の持つ何とも言い難い平安の雰囲気に惹かれて、教会にお越しの方々もおられるでしょう。ここで、後者の方々については別の機会に書くことにして、前者の方々に向けて書かせていただきます。
日本の教会は、第二ヴァチカン公会議後2回にわたって福音宣教推進全国会議(NICE1、NICE2)を開き、話し合い、議論して、早25年の歳月が経とうとしています。つまり、大きな舵取りをして、「聖書に戻る、初代教会に戻る」という歩みに大きく変革した第二ヴァチカン公会議をうけて、具体的に日本の教会で問題視していたテーマ「信仰と日常生活の乖離」「家族」についての話し合いを全国規模で持ち、多くの方々が聖霊の促しをうけたように燃え上がっていた経験をしました。しかし、「家族」がテーマのNICE2では、司教様方の意見の一致を見ずにポシャってしまいました。つまり、多くのカトリック家庭や、カトリック信者のいる家庭内の様々な問題が明るみに出たために、その膿を出せずじまいになったのです。その後、日本の社会では家庭内暴力、親への殺人事件等の報道がなされました。教会でのNICE2の話し合いの結果出た問題は、正に日本社会への預言的な出来事であったと回想される方々もおられましょう――と言っても、全くチンプンカンプンの方々もおられましょう。
色々な仕方で、主イエス・キリストに出会い、救われたり、解放された経験をされて教会にお越しの方々。主キリストは、もっともっと私たちに救いと解放の体験をさせたいのです。主の弟子である私たちを、色々な現実の生活を通して、主キリストのように成長へと招きたいのです。そして、主は私たちに復活のいのちをも保証されておられるのです。でも「主よ、主よ」という者が天国に入れるのではありません。神のみこころを行う者が入れるのです。それは、私たちが、それぞれに与えられた信徒としての召命に応えることなのです。しかし、私たちは罪人であり、自分の嗜好で時として善悪判断をしてしまいがちです。古い自分に執着し、大きな変化を拒み、主の招きに応えようともせずにいるのではないでしょうか。



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