現在のカトリック本所教会主任司祭

イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父
 

 
東京教区での渡邉泰男師の略歴

司祭叙階       2006年3月5日
     
目黒教会助任    2006年〜2009年       
 
豊四季教会助任  2009年〜2010年
豊四季教会主任  2010年〜2017年
 
本所教会主任    2017年4月〜

 


教会報
第196号
教会報
第195号
教会報
第194号
教会報
第193号
教会報
第192号
教会報
第191号
教会報
第190号
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第189号
教会報
第188号
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第187号
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第185号
教会報
第184号
教会報
第183号
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
教会報第197号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

ミサ前提の教会]

前回まで3回に亘りイエスの生きた時代背景を見てきました。ユダヤ人社会は、大国の侵略を受け支配されていました。そのユダヤ人社会では、少数の権力者らによる横暴と不正に多くの人々が喘いでおり、かつ、その社会は差別を容認していたのです。福音書は、キリストが、このユダヤ人社会の厳しい現実の中で、人間としての尊厳を踏み潰されてしまっていた人々に対する福音であった事を記しています。
人々にとって、キリストとの出会いは観念的なレベルでの救いではなく、日々の現実に痛めつけられていた人間性の回復と救いであったのです。実にそうしたキリストとの出会いから生まれた共同体は、権力と欲望と暴力が支配する世界の中で、魅力ある共同体になっていたのです。こうした福音書の中から浮かび上がってくる福音理解こそ、福音宣教という重い課題を背負った現代の教会が現代社会にあってどこに重点をおくべきか、光を与えてくれるものです。 さて、16世紀に宗教改革が起こり、これに対抗してトリエント公会議でのカトリック教会のことを覚えておられるでしょうか。当時の教会が打った手は教会全体の引き締めです。異端審問制度の強化や禁書目録の周知徹底によって、引き締めを強化します。つい最近まで、聖書を自由に読んではいけないと言われ育った信徒の方々もおられることでしょう。こうした一連の引き締めの中心は、教皇を中心としたバチカン省庁によって行われ、それまでは、地域の司教を中心として主体的に動いていた教会が、徐々に教皇をピラミッドの頂点とした中央集権的な体制に変わっていきました。教皇、枢機卿、司教、司祭、修道者という教会内の序列が明確になり、信徒はその一番下に位置づけられ、「教えられ、導かれ、統治される立場」に置かれるようになっていきます。教会の中で、信徒たちが主体的に発言したり、行動したりすることが許されず、完全に受動的な立場に置かれるようになってしまうのも、この時期からです。今もって、現代社会に相応しい関わりが信徒と司祭の間で育てられていないのは、トリエント公会議で確立した教会像、司祭像から、信徒も司祭も抜け切ることができないためだろうと言えましょう。 そこで、第Uバチカン公会議に目を向け、近代の教会の歴史を見ていきましょう。

1.第Uバチカン公会議までの教会
         −近代社会の芽生えを大断罪する教会−
18、19世紀の教会の特徴を総括すると、近代社会を構築するための原動力となった新しい社会の芽生えを理解できず、その価値と意味を否定的に捉え、それを真っ向から大断罪し、正当な教義と信仰生活を近代社会から守ることに自らの役割があると自覚し、教会を近代社会から信者たちを守る堅固な要塞としていたということに尽きます。トリエント公会議以降と同じ、いやそれ以上に締め付けが強化されていきました。
近代社会に至るまでの流れを育ててきた原動力は、@自由、A平等という理念と、B科学技術の発達、それに資本主義経済です。この@からBは現代社会の発展を支えている大きな柱です。ところが、この3つが社会の中に芽生え、育ち、互いに重なり合って、社会全体が大きく動き始めようとした時、教会は、弾圧する側に立ってしまいました。その排他的な決定的姿勢が、基本的には第Uバチカン公会議までの教会を支配し、それが神学を始めとするすべての信仰生活を覆っていたのです。この影響を信仰面で受けておられると、教会の教えと聖書のキリストの教えとの違いがわからず、福音それ自体もピンとこなくなってしまうでしょう。

この3つが形となって歴史の表に現れたとき、教会はどのようにそれを受け取り、反応し、歴代教皇が具体的にどのように対応したかは、次回で。

 
教会報第196号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

ミサ前提の教会\

実にキリストと出会い、自らの人生の福音として体験した人々の共同体=教会、それを支える命は人々の福音体験でした。前回に続きキリストの時代に生きたユダヤ人たちがどのような苦しみを背負っていたかをみてみましょう。

(3) 差別構造の重圧にあった人々

当時のユダヤ社会の至るところで差別が正当化されていました。人間一人一人が尊いと訴え続けるキリストの言動は、差別を肯定し正当化し続けてきたユダヤ社会の指導者たちの目には、社会の自由と安定を揺るがせる危険極まりない言動として映ったのです。ユダヤ社会の差別の基本にあるものが、選民意識に由来するものでした。その出発点は、アブラハムの選び。人々は、自分たちは神から直接選ばれたアブラハムの子孫の民であり、そのアブラハムにつながることによって、神の祝福に与ることができるという意識を生きており、そこから他の民族を蔑視する傾向が育ちます。マルコ福音書5章25節の12年間出血を患っていた女性の癒しのエピソードも、差別の視点から光を当てていくと、そこから鮮明なメッセージが伝わってきます。実に彼女の苦しみや、病との戦いだけではなく、不浄者として地域共同体から隔離され、孤独な状態に追いやられていたことがあったはずです。したがって、彼女の癒しは病の癒しということにとどまらず、共同体への復帰を意味したのです。同じことが重い皮膚病を患っていた人たちにも言えます。彼らの癒しは、地域共同体への復帰でもあったのです。
誰かの病を癒しがたいものとして判断し、隔離を命じるのは祭司たちの役目であり、指導者たちが、こうしたことで苦しむ人々を擁護するどころか、加害者としての役割を果たしていたということも見落としてはならないことです。また、特に福音書が、差別されていた人々とキリストとの出会いを通して、福音を伝えようとしていることも、涙すべきことです。例えば、新約聖書の冒頭に置かれて、キリスト誕生の神秘を明らかにするケースにおいては、罪ある女性たちが登場します。男性中心の家系図が一般的な社会にあって女性が系図の中に登場すること自体、珍しいことですが、故に、そこに登場する女性たちの全てが、マリアを除いて、罪に関わる女性たちです。 さらに、マタイ福音書2章1節で、生まれたばかりの救い主のもとに導かれたのは、東方の占い師の学者たちです。占い師は律法で厳しく断罪されていた存在です。そんな彼らが、誕生したばかりのキリストのもとに招かれていたのです。ルカ福音書では、キリストが誕生する場所は、ユダヤの教養がある人々からは蔑視されるような家畜小屋であり、そこに招かれていくのは、同じようにユダヤの一般社会のアウトサイダー的な存在であった羊飼いたちだったからですでした。イエスの最後の場面で、息を引き取った後にイエスが神の子であったと宣言するのは、ユダヤ人たちが軽蔑していたローマの百人隊長とその兵士たちです。(マタイ27・ 54) さらにまた、復活したキリストに最初に招かれたのも、女性たちです。実に、救い主としてのキリストとの出会いをした人が、キリストの誕生の瞬間から復活まで、差別され軽視されていた人々であったと伝える聖書の一貫した姿勢は、差別を疑いもせず容認し続けてきただけではなく、加害者ともなっていた当時のユダヤ社会に対する挑戦であったとも言えるのです。キリストは差別社会の中でがんじがらめにされて苦しみ続けていた人々に、真の自由と解放を与えたのです。

 
教会報第195号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

ミサ前提の教会[

 実にキリストと出会い、自らの人生の福音として体験した人々の共同体=教会、それを支える命は人々の福音体験でした。前回に続きキリストの時代に生きたユダヤ人たちがどのような苦しみを背負っていたかをみてみましょう。

(2) 暴虐と不正に満ちた支配に苦しみ続けてきた人々

こうした歴史的な背景のうちに人々に与えられた福音が、ピラミッド型の統治の権力構造のもとで抑圧されていた人々が見出したものであったことを見落としてはならない。当時の社会はどこでも同じような構造をとっていた。人口の数%にしかならない権力者たちを中心に構成されており、その頂点に立つのは、ローマ皇帝、そして王たちである。その人に彼らの意のままに動く官僚たちや兵士たちがおり、そのさら下に、ユダヤ社会の分国王、大祭司、長老、律法学者たちがいた。人口の大半を占めていたのが農作に従事する農民や小作人たち。キリストの時代には全人口の70%近くを占めていたと言われる。彼らの大半は地主たちのために働かされ、重い税を課せられた。通常は15%から35%、多いときには50%もとられたという記録が残っている。
権力者たちは自分たちの利益を追求し権力を拡大することには敏感で、それを危うくする者たちに対しては残酷であった。弱い立場にある人々が、どれ程ひどい目にあっていたかを精査することができる。どこか現代社会に通じる経済優先社会のようでもあろう。

「彼らが正しい答えを金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱いものの頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている。親も子も同じ女のもとに通い、私の聖なる名を汚している。祭壇のあるところではどこでも、その傍らに私にとっては衣を広げ、過料として取り立てたぶどう酒を、神殿の中で飲んでいる」アモス2.6-8

「主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ/役人も裁判官も報酬を目当てとし/名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。彼らの中の最善の者も茨のようであり/正しい者も茨の垣に劣る。お前の見張りの者が告げる日/お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。」ミカ7.2-4

「どうして、あなたはわたしに災いを見させ/労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり/争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。」ハバクク1・3

「彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き/砂を集めるようにとりこを集める。」ハバクク1・9

ここに出てくる権力者たちとは、祭司、裁判官、地主、高利貸しなどで、弱い立場にある人々は、こうした人々の欲望のままに操られ、利用され、時として踏みつぶされ、多くの人々は、なすすべもなく泣いていた。
キリストが登場した時代も、同じような状態で、実に愛と正義が通用せず、暴虐と不正が幅をきかす社会の中に、キリストが登場し、一人ひとりの尊さを訴えたのです。

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」マタイ18-6

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」マタイ18・10

「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」マタイ18・14

一人ひとりの人間の絶対的な尊厳を訴えるキリストの言葉は、虐げられていた人々にとっては、鮮明に響いたに違いない。荒野の中でオアシスを見出したような感動と喜びを受けたでしょう。また 弟子たちを論したイエスの言葉も、権力者たちの意のままに砂粒のように踏みつぶされていた当時の人々には新鮮だった!!

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」」マルコ10・42- 44

キリストの言葉は、当時の権力者や支配者たちの姿勢とは正反対の生き方を呼びかける。キリストの生き様は、権力者たちや支配者たちによって搾取され続けてきた人々には、何よりも福音であったに違いない。







 

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講話集
 

第9代 カトリック本所教会主任司祭
酒井 俊雄 神父の主日のお説教集

(2010年2月21日から2011年4月17日まで掲載)

 

四旬節講話  2008年2月17日
『十字架―キリスト教のトレードマーク』

講師 国井 健宏師(御受難修道会)

 
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(注:接続回線の状況によっては時間がかかる場合があります。)
 
日本二十六聖人殉教者祭   2007年2月4日 カトリック本所教会 
前田万葉師
(カトリック中央協議会事務局長)
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日本二十六聖人殉教者祭   2006年2月5日 カトリック本所教会 
マルコ・アントニオ・マルチネス・フランコ
(グアダルペ宣教会・千葉寺教会)
講演の記録はここをクリックしてください

 
日本二十六聖人殉教者祭   2005年2月5日 カトリック本所教会 
高松教区 溝部脩 司教
講演の記録はここをクリックしてください
 
日本二十六聖人殉教者祭   2003年2月2日 カトリック本所教会 
日本二十六聖人記念館・館長 結城 了悟 師(イ エ ズ ス 会)
講演の記録はここをクリックしてください
 

 

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