教会報第185号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


今回は、前号で皆さんへの質問というか呼び掛けたものの1つ、「カトリック教会の持つ何とも言い難い平安の雰囲気に惹かれて、教会にお越しの方々もおられるでしょう」について書くことにします。 が、本所教会は東京教区の中でも非常に珍しい小教区です。長い間、お一人の主任司祭によって司牧されていたからです。それに本所白百合幼稚園の園長も兼ねておられました。ですから、教会周辺の方々にも「神父」という言葉が、これまた日本社会の中で珍しく通用している地域でもあります。 一般的に、「何とも言い難い平安の雰囲気に惹かれて」ミサを祝いに来られる皆さんに対しては、教会の典礼が大きく関わることになります。と同時に、受洗の勉強をされた時期にも関わります。また、何より大きな影響を与えるのは司祭です。その司祭が、教会のどの時期に神学校で学び、司祭としてどう生きて来られたかが大きく関わって来ます。そして、皆さんが、神との関係を、しっかりと主キリストを通し、教会をどう捉えているかという事も。 そこで、次回からカトリック教会の典礼について学ぶことにいたします。 改めて、お伺いします。皆さんは、本当にミサを通して喜びと希望を受け取られているでしょうか。ミサに欠かさず出ているなかで、新しさへの招きに与りながら自分が変えられている事を感じられているでしょうか。 実は、ある神学者によればミサの祝い方には3つの問題があると言われています。 ①[ミサへの逃避] 特に日常生活と社会の様々な困難から、個人的で内的な世界、ミサの場所(教会)に逃げ込もうとする。 ②[「祭壇の秘跡」(感謝の典礼)と「隣人愛の秘跡」の分離] 信心深く祭壇で行われる秘跡に参加しながら、それが兄弟姉妹の相互の交わりの秘跡であることを忘れてしまう。 ③[精神安定剤としての利用] 色々な悩みや問題を抱えて、ミサを自分の心を落ち着かせるための助け、一種の安定剤として使う。 以前は、①や②みたいな時もあったような気がしませんか。②のように、どこか、祭壇で行われる秘跡に参加していながら、それが兄弟姉妹の相互の交わりにまで達していなかったと感じることは無かったでしょうか。 これから、教会の歴史の中でどのように典礼が変わっていったのかを見ながら、私たちを新しさに招く主キリストの道を歩み起こせるようにしていきましょう。



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