教会報第189号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


「ミサ前提の教会3」

 トリエント公会議後確立された教会像・司祭像から信徒が抜け出すために、キリストの新しさを改めて学ぶ必要があります。
「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた」(ルカ6:12~13)
旧約聖書の世界で重要な役割を果たすのは、「預言者」「大祭司」「律法学者」等と呼ばれる人たち。彼らは一度も「使徒」とは呼ばれていない。キリストの新しさは、「使徒」という役割を果たした人々を中心とした運動を展開しようとしたことにあります!
「使徒」とは、誰かから、権限を委託されて、その人物に替わって、その望むことを伝えたり、渡したりすることを役務とする人のこと。当時の中近東の世界では、王の名で人々に王の意思を伝えたり、王の名代としてある役割を果たしたりする人々が「使徒―遣わされた者」と呼ばれている。人々も、王の名代として派遣される人を、王を迎えるのと同様に丁重に持てなす。
「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハネ20:21)
「あなた方を受け入れる人は、私を受け入れ、私を受け入れる人は、私を遣わされた方を受け入れるのである」(マタイ10:40)
「私は、天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28:18)
十字架を前にしたゲッセマネの園で苦しみもだえるキリストの唇に上った「御心のまま」は、キリストの日々の決断が、自身を遣わされた神の意思を究極の基準にして行なわれたことです。
またキリストは、神が何を目指して自身を遣わしたのか、機会があるごとに、周りの人々や弟子たちに明らかにしている。それは人間一人ひとりを尊び、一人ひとりの人生に神の希望、喜び、人の命の輝きを与えるためなのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が、一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは、天でいつも私の天の父のみ顔を仰いでいる」(マタイ18:10)
「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなた方の天の父の御心ではない」(マタイ18:14)
 キリストを遣わす神の意図は人間に対する愛であり、キリストは、その愛に沿って生きている。具体的には、人間一人ひとりを尊び、一人ひとりに寄り添い、必要な手を差し伸べる。キリストは安息日に病人を癒したり、罪人と会食したり、姦通の場面で捕らえられた女を守ったり、蔑視されていた罪深い女を温かく包み込んだりする。それは、律法学者やパリサイ派の人たちをつまずかせ、彼らから厳しく非難され糾弾されることにつながる。しかし、キリストはひるまない。それは、もし妥協したり揺らいだりすれば、遣わされた方の意思に背き、自らのアイデンティティーを失うことになるからです。
また、復活後、弟子たちの前に現れたキリストは、彼らに「父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす」と宣言する。「父が私を遣わしたように」との言葉から明らかなように、キリストは、後から委ねられた人を弟子たちに委ねたので、その役割とは、キリストと同じように、人間一人ひとりに寄り添い、尊び、共に歩みながら、彼らに神の希望、喜びをもたらすことに他ならない。そこにこそ、司祭、司教、教皇と呼ばれる人々に委ねられた任務の本質があります。
長くなるので、この辺で一旦切ります。



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