教会報第191号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


ミサ前提の教会Ⅳ

前々号に引き続き、トリエント公会議後に確立された教会像・司祭像から信徒が抜け出すために、キリストの新しさを改めて学ぶ必要があります。 つまり、当時、ヒエラルキー(位階制度)が明確化し、信徒は一番下に位置付けられ、「教えられ、導かれ、統治される立場」とされたこの受け身的立場から解放され第2バチカン公会議に沿った生き方を目指すために、聖書に戻って学び直してみましょう。

イエスの新しさは、「遣わす、遣わされる」所にあります。 ところが、派遣された弟子たちは、福音書を見る限り、その役割を果たしていない。宣教旅行中でも、自分たちの中で誰が一番偉いかと論じ合ったりして、その都度、イエスからとがめられている。最後の晩餐の最中にでさえも自分たちの地位や立身出世にこだわっている。ましてや、ペテロなどは「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13・37)と豪語しながら、イエスの受難の場面ではイエスのことを「知らない」と言い、十字架の下から逃げてしまいます。
しかし、イエスの復活後、マルコ福音書によれば、『11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」』( マルコ16・14~15)と記されています。
彼らは人間としての資質がどうであれ、キリストが、全世界に行って福音を伝える使命を彼らに与えたという事実は、受け止めなければならない。明らかにキリストの意思です!

しかし、キリストが復活を伝える女性たちの証言に耳を貸さなかった彼らの信仰、心のかたくなさをとがめていることも事実であり、それもまた軽々しく看過してはいけない!
弟子たちの不信仰をとがめたキリストのことばは、復活を体験した人々の証言に耳を傾けるようにといううながしと捉えることができる。キリスト教の中心には、十字架の死と復活がある。その2つの出来事に他の誰よりも先に深く真正面から向き合った人間は、弟子ではなく、マグダラのマリアを初めとする女性たちなのである。彼女たちほど深く十字架と復活の神秘に触れたものは他にない。キリストは、そんな彼女たちから福音がどういうものであるか、学びに行きなさいと促したと理解することができる。イエスの近くにいた弟子たちが、キリストのことを教えたり、伝えたりしたのではなく、実生活の中で体験した女性たちから学ぶことを聖書は記しているのです。
聖書にしっかりと向き合うことがいかに大切かお分かりいただけた所で今月は終わります。



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