教会報第192号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


ミサ前提の教会Ⅴ

キリスト教の中心は、十字架の死と復活です。この2つの出来事に他の誰よりも先に深く真正面から向き合って人は、弟子ではなく、マグダラのマリアをはじめとする女性たちでした。彼女たちほど深く十字架と復活の神秘に触れたものは他にいませんでした。キリストはそんな彼女たちから福音がどのようなものであるか、学びに行きなさいと促して、使徒たちを遣わしたと理解することができます。だから、教皇フランシスコも、女性の霊性に関する研究を神学者らに促したのも伺えるでしょう。
さて、当時の女性たちは、悲しい存在でした。男尊女卑の世界で、男性の所有物のように扱われていました。その上、ローマ帝国の侵略を受け、田畑や財宝は略奪され、多くの男たちが戦場で倒れ、生き残った男たちは強制労働に駆り出されたりして、社会は落ち着きを失っていました。巷には失業者が溢れ、男たちには頼れない状況にありました。貧しい中で家族を支えることは、女性たちの肩に重くのしかかっていたのです。希望の見えない耐えるだけの日々、そんな状況の中で彼女たちは、キリストと巡り合ったのです。その出会いは、彼女たちにとっては新鮮だったはずです。その人柄に触れ、その説教などを耳にして彼女たちは、直感的に、魂の奥底で、キリストこそ自分たちの人生を温め、慰め、支え、励ましてくれる命として捉えたに違いないのです。しかし、この世界は残酷です。彼女たちがせっかく見出した希望、容赦なく奪い取ってしまったのが十字架です。せっかく見出した希望が奪われてしまい、彼女たちは、より深い悲しみと絶望に割れたに違いないのです。「神よ、神よ、なぜ、私を見捨てたのか」と言う十字架上のキリストの叫びは、おそらく彼女たちの叫びになっていったことでしょう。そんな彼女たちにとって、キリストの復活は、心の奥底からの喜びになったに違いありません。復活の喜びに招かれる者は、真の絶望の闇を体験した者たちだけです。彼女たちこそ、その条件を満たしていました。
福音を体験した人々は、他にも大勢います。罪深い女を赦すエピソード(ルカ7・36ー50)、サマリヤの女のエピソード(ヨハネ4・1ー26)、姦通の現場で捕らえられた女性のエピソード(ヨハネ8・1ー11)などがあります。
キリストが、どんな喜びを人々にもたらしたのか、身をもって体験したのは、まさにそういう人々でした。キリストは、そのような人々のもとを訪れ、彼ら、彼女たちの話に耳を傾け、福音の広さや深さや豊かさを学ぶように弟子たちに促したのです。十字架直後の弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて隠れていました。復活したイエスは弟子たちに現れ、彼らの裏切りを咎めもせず、優しく包み込んでくれたのです。弟子たちも彼らなりに福音を体験したのです。しかし、それだけでは、福音の広さ、深さ、豊かさを知るには不十分でした。福音を伝える使命は与えられたでしたちわ、女性たちを始めとする福音を体験した人々から、福音の何たるかを学ぶ必要があったから派遣されていたのです。
実にキリストと出会い、自らの人生の福音として体験した人々の共同体、それが教会でした。その教会を支える命は人々の福音体験でした。使徒たちは、そうした人々に耳を傾け、福音理解を深めて、キリストから委ねられた使命を果たすのにふさわしい人物に成長したと言えましょう。福音を体験した人々との交わりが、人たちの働きの源泉であり活力の源となっていったのです。



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