教会報第193号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


ミサ前提の教会Ⅵ

 前号の最後に触れたように、実にキリストと出会い、自らの人生の福音として体験した人々の共同体、それが教会でした。そしていま、複雑な現代社会に福音を伝えていくためには、何よりもまず現実社会の中でも揉まれながら、福音体験に耳を傾けて、現代社会の福音となるキリストの豊かさ、深さ、広さを学んでいくべきなのです。
ところで、福音宣教について色んな議論がありますが、その福音の具体的な中身については、必ずしも共通理解があるわけではありません。アジアの特別シノドス(世界代表司教会議)で、司教たちは、伝えるべきものは「キリストそのもの」であると明言し、日本の司教たちは、キリスト理解は具体的な人間との関わりの中で求めなければならないと言及しています。「どのような意味でイエスが道であり、命であるかということを掘り下げて、アジア諸国の人々にとってどの様な光となるのかを見極める必要がある」また「他者を説得するための言葉よりも、力の無い弱い人々の側に立ち、その様な人々への共感を示していく宣教姿勢が大切」と。
つまり、「人々にとって、どの様な意味でイエスが道であり、命であるか」と問い続けていかなければならない。この事は、伝えていく側にいる私たちの自己満足に終わらないためには大事なことです。これまでの宣教は、ややもすると、上からの目線で、自分たちが理解していた真理を伝えようとする傲慢さが付いて回っていました。宣教とは、相手にこちら側の理想を押しつけて相手の生き方を支配し、コントロールしてしまうようなことでは決して無い! 福音を伝えるということは、相手をこちら側に取り込むことでは無い? 相手の人生に敬意を示し、その人の人生にとって何が真の福音、真の希望となるかを真剣に問い続けながら、どんなことになろうとも相手の人生に真心を込めて寄り添っていこうとする心構えのもとに行われるべきです。

キリストの時代に生きたユダヤ人たちが、どの様な状況に置かれどの様な苦しみを背負っていたかの考察検証は次号以降に譲り、ここでは「福音宣教」の宣教について少し概観してみましょう。

 「福音」という言葉は、「喜びを与える便り、良き知らせ」という意味です。「福音を告げ知らせる」ことと、「宗教としてのキリスト教を宣教(伝道)する」ことは、本質が違うようです。イエスは、使徒たちを派遣するにあたり、色々な注意事項を与えます(マタイ9・36~10・42ルカ10・1~16)が、それらの諸注意はすべて、地上のあちこちで既に実現し始めている神の国の働き(実)を確認し、手をつないで協力していくためのものであり、イエスがそれを「刈り入れ」というイメージにしています。
ヨハネ福音書ではっきりと告げています。
「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」(4・35~38)
だから、日常生活の真っ只中で、主イエスの働きのような出来事に遭遇したり、人との関係性の背後におられる主キリストの眼差しを、人を通して体験したりするのです。それを証しするのも福音宣教で、復活の出来事の神秘を味わうことになりましょう。使徒言行録にある「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1・8)というみことばの実現です。

この復活節の季節、日常の体験を通しての福音宣教を理解していきたいものです。



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