教会報第194号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


ミサ前提の教会Ⅶ

実にキリストと出会い、自らの人生の福音として体験した人々の共同体=教会、それを支える命は人々の福音体験でした。では、前号教会報でお約束した通り、キリストの時代に生きたユダヤ人たちがどのような状況に置かれ、どのような苦しみを背負っていたかを見てみましょう。
(1)当時のユダヤ人社会は大国の侵略を受け、その支配下に置かれ続けてきた
(2)当時のユダヤ人社会の少数の権力者たちによって統治されて、彼らの暴挙と不正に多くの人々があえいでいた
(3)当時のユダヤ人社会が差別を容認しており、実に多くの人々がその差別に泣いていた
この3つの歴史的な状況にスポットを当てながら、キリストの生涯とそのメッセージが、当時の人々にどのような意味で福音となったかを、明らかにしていきましょう。

(1)大国の侵略と支配下に置かれ続けてきた人々

まず当時の人々の苦しみを理解するために、第一にユダヤ人社会は数世紀にわたって大国の侵略を受け、大国の支配下にあったという歴史的事実。イスラエルの人々は、紀元前8世紀のアッシリアの侵略から始まり、エジプト カルディヤ・バビロン、ペルシャ、アレキサンダー大王のギリシャ、さらにローマと大国の侵略の下に置かれ続けてきたという歴史を背負っています。
大国の占領下に置かれているということは、実に悲惨なことです。外国からの侵略の体験のない私たち日本人には分かりにくいことかもしれないが、日本軍の侵略によって踏みにじられた身近なアジア諸国の人々を具体的に思い浮かべてみれば、少しはわかるかもしれません。アジアの人々の中には、今もってその悲惨さを引きずってしまっている人々が多かれ少なかれいるのも事実です。イスラエルの人々の悲惨さはその比ではない。継続的であるが、その数世紀近く大国の支配下に置かれ続けてきています。その悲惨さは、私たち日本人には想像もすることのないほど深く、その悲しみと苦しみは彼らの存在の奥深くに遺伝子のように組み込まれてしまっていると云っても過言ではないでしょう。大国の侵略の残酷さを丁寧に語り継いでいるのが、旧約聖書です。特に預言者たちの姿をひもといてみれば明白です。

「銀を奪え、金を奪え。」その財宝は限りなく/あらゆる宝物が溢れている。破壊と荒廃と滅亡が臨み/心は挫け、膝は震え/すべての人の腰はわななき/すべての人の顔はおののきを示した。(ナホム2:10~11)

災いだ、流血の町は。町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち/人を餌食にすることをやめない。鞭の音、車輪の響く音/突進する馬、跳び駆ける戦車。騎兵は突撃し/剣はきらめき、槍はひらめく。倒れる者はおびただしく/しかばねは山をなし、死体は数えきれない。人々は味方の死体につまずく。(ナホム3:1~3)

飢えは熱病をもたらし/皮膚は炉のように焼けただれている。人妻はシオンで犯され/おとめはユダの町々で犯されている。君侯は敵の手で吊り刑にされ/長老も敬われない。若者は挽き臼を負わされ/子供は薪を負わされてよろめく。(哀歌5:10~13)

大国の侵略がどれだけ残酷でひどかったかがうかがえます。ここで注目したいのは、預言者たちのこのような描写の背後に、人々の神に向けた叫びと信仰が息づいているということです。預言者たちは悲惨な歴史体験を語りながら、そこで苦しみもがく人々のつらさを浮かび上がらせ、その叫びを神に届けようとしています。その叫びが神を動かし、神を呼び寄せるのです。
神は、こうした人々の切ない叫びに応えて、手を差し伸べてくださる。そこに救いが具体的な形をとるのです。それは、すでにエジプトで苦しむ人々を救うためにモーセを派遣しようとするエピソードの中にあります。

主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。(中略)見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」(出エジプト3:7~10)

旧約聖書の人々にとって、神からの救いは、抽象的な概念ではなく、残酷な歴史的出来事と結びついているのです。それは、罪からの救いとか、罪のあがないとか、ヨーロッパでの二千年の間に神学的な専門用語によって整理され、まとめられてきた救いの概念とは、全く異なるのです!
キリストが登場した時代も人々はローマ帝国の侵略下にあり、人々の心の奥には預言者たちが伝え語っているような叫びが、受け継がれていたのです! キリストは、そんな人々の叫びに動かされて天の父なる神によって、人々のもとに遣わされてきたのです。実に、聖書の中の人々が見出した希望、そして福音は、生々しい歴史の現実の中で、苦しみもがく人々に与えられたものであったのです!



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