教会報第196号 巻頭言
イグナチオ・デ・ロヨラ渡邉泰男神父

  


ミサ前提の教会Ⅸ

実にキリストと出会い、自らの人生の福音として体験した人々の共同体=教会、それを支える命は人々の福音体験でした。前回に続きキリストの時代に生きたユダヤ人たちがどのような苦しみを背負っていたかをみてみましょう。

(3) 差別構造の重圧にあった人々

当時のユダヤ社会の至るところで差別が正当化されていました。人間一人一人が尊いと訴え続けるキリストの言動は、差別を肯定し正当化し続けてきたユダヤ社会の指導者たちの目には、社会の自由と安定を揺るがせる危険極まりない言動として映ったのです。ユダヤ社会の差別の基本にあるものが、選民意識に由来するものでした。その出発点は、アブラハムの選び。人々は、自分たちは神から直接選ばれたアブラハムの子孫の民であり、そのアブラハムにつながることによって、神の祝福に与ることができるという意識を生きており、そこから他の民族を蔑視する傾向が育ちます。マルコ福音書5章25節の12年間出血を患っていた女性の癒しのエピソードも、差別の視点から光を当てていくと、そこから鮮明なメッセージが伝わってきます。実に彼女の苦しみや、病との戦いだけではなく、不浄者として地域共同体から隔離され、孤独な状態に追いやられていたことがあったはずです。したがって、彼女の癒しは病の癒しということにとどまらず、共同体への復帰を意味したのです。同じことが重い皮膚病を患っていた人たちにも言えます。彼らの癒しは、地域共同体への復帰でもあったのです。
誰かの病を癒しがたいものとして判断し、隔離を命じるのは祭司たちの役目であり、指導者たちが、こうしたことで苦しむ人々を擁護するどころか、加害者としての役割を果たしていたということも見落としてはならないことです。また、特に福音書が、差別されていた人々とキリストとの出会いを通して、福音を伝えようとしていることも、涙すべきことです。例えば、新約聖書の冒頭に置かれて、キリスト誕生の神秘を明らかにするケースにおいては、罪ある女性たちが登場します。男性中心の家系図が一般的な社会にあって女性が系図の中に登場すること自体、珍しいことですが、故に、そこに登場する女性たちの全てが、マリアを除いて、罪に関わる女性たちです。 さらに、マタイ福音書2章1節で、生まれたばかりの救い主のもとに導かれたのは、東方の占い師の学者たちです。占い師は律法で厳しく断罪されていた存在です。そんな彼らが、誕生したばかりのキリストのもとに招かれていたのです。ルカ福音書では、キリストが誕生する場所は、ユダヤの教養がある人々からは蔑視されるような家畜小屋であり、そこに招かれていくのは、同じようにユダヤの一般社会のアウトサイダー的な存在であった羊飼いたちだったからですでした。イエスの最後の場面で、息を引き取った後にイエスが神の子であったと宣言するのは、ユダヤ人たちが軽蔑していたローマの百人隊長とその兵士たちです。(マタイ27・ 54) さらにまた、復活したキリストに最初に招かれたのも、女性たちです。実に、救い主としてのキリストとの出会いをした人が、キリストの誕生の瞬間から復活まで、差別され軽視されていた人々であったと伝える聖書の一貫した姿勢は、差別を疑いもせず容認し続けてきただけではなく、加害者ともなっていた当時のユダヤ社会に対する挑戦であったとも言えるのです。キリストは差別社会の中でがんじがらめにされて苦しみ続けていた人々に、真の自由と解放を与えたのです。



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