「キリストの聖体」(A年) 説教
2011年6月26日・加藤 英雄


荒野を行くイスラエルは神様に従って行かなければならない。荒れ野は命のないところ。神様が一緒におられなければ生きることが出来ない。食べものがない、水がない。敵に襲われる。イスラエルは40年の間荒れ野を歩いた。イスラエルにとって毎日が苦しみの日々であった。不安の日々であった。イスラエルの希望はこの苦しみの中にも神様が、自分たちと一緒にいてくれることであった。神様に導かれる旅をしている。必ずよいところに導いてくださる。それが希望。神様を信じられなくなったら希望は消えてゆく。
エジプトからの脱出の旅路は乳と蜜の流れる土地へ向かっているのか。歩く、歩く。長い、長い月日が立つ。しかし、どこまで行っても荒れ野だった。この旅を導いたのは主である。この苦しさを導いたのは主である。主はご自分の思いのうちに、イスラエルを苦しめ、飢えさせ、渇きを与えられた。飢える、渇く、苦しいイスラエルの人々の心は何か、神様の戒めを守るか。そして、人はパンだけで生きるものではない、主の口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるために広くて恐ろしい荒れ野を行かせたのです。

人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる。

イエスは言われます。わたしは天から降って来た生きたパンである。わたしを食べなさい。わたしを食べるものは永遠に生きる。ユダヤ人は言います。どうしてこの人は自分の肉をわれわれに食べさせる事が出来るのか。
イエスは言われます。わたしを食べなさい。わたしの命のうちに生きるものとなりなさい。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物。イエスの肉はイエスの生涯。イエスの姿である。イエスを理解するのではない。イエスの言葉に心を動かされるのではない。イエスを食べる。イエスの血を飲む。イエスの中に入るのです。イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むものはイエスによって生きる。永遠に生きるものとなる。イエスの言葉を守る事ではなくイエスの体を食べる事がイエスへの道です。イエスを食べなければイエスの体の中に入れない。

荒れ野の旅のうちで、イスラエルは神様の御言葉、律法を頂きました。律法はわたしの思い。律法のうちに生きなさい。今、新しい律法が与えられた。新しい律法、生きている神のみ言葉、それがイエスです。律法を守るのではない。律法を食べる。食べて律法のうちに生きるのです。イエスが自分の中に生きる。イエスが命のパン。イエスが自分を造ってゆく。

わたしはまことのぶどうの木。あなたがたはその枝である。ぶどうの力が枝に流れ込む。ぶどうの力によって、ぶどうの枝がぶどうの実を結ぶ。(ヨハネ15-)

 


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