「年間第31主日」(A年) 説教
2011年10月30日・加藤 英雄師

 

  ペルシャがバビロニアを征服した。ペルシャ王キュロスはイスラエルをバビロンでの生活から解放した。エルサレムに帰ってもよい。神殿を造ってもよい。神殿を再建し、エルサレムをもう一度信仰の都とする。イスラエルに帰った者たちは信仰の道を歩みます。自分の生活をさしおいて神殿の再建に努力する。安息日を大切にする。そしてついに、神殿が完成した。イスラエルが新しく、信仰の道を歩み始めた。しかし、神様からの栄光の日が到来しない。まだ、ペルシャに支配されたままである。貧しい生活が続いている。祭儀がおざなりになってきた。  
イスラエル、神様を主とする者たち、あなたたちは神様の名を冒涜しているのではないか。神に対する畏れはどこに行ったのか。祭壇の供え物に心が入っていない。あなたがたの礼拝はどうしたのか。わたしは大いなる神、あなたがたの主である。あなたがたはまた、わたしの道からそれようとしている。
信仰によって恵みの回復を求めるのではない。今、語っているわたしの言葉に心を留めなさい。信仰のない生活、人の我儘な生活になってゆく。人の尊厳のない生活―生きる尊厳がない、価値のないものになってしまう。人は動物の命によって生きるのではない。神様から注がれた神の命に生きるのではないか。 

サドカイ派の人々、ファリサイ派の人々がイエスに次々と問いかけます。
ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人が問います。
皇帝に税金を払うのは律法に適っているでしょうか、いないのでしょうか。
復活はないといっているサドカイ派の人がイエスに問います。
復活、新しい命とは何ですか。死んだ人が生き返るのですか。
聖書がすべて頭の中に入っているファリサイ派の律法の専門家が問います。
先生、律法の中でどの掟が一番大切なのでしょうか。
イエスは一つ一つの問いに答えられます。

そして、イエスは群衆と弟子たちにお話になりました。
律法は神様のみ心です。神様のみ言葉です。律法を大切にしなければいけません。そして、モーセの座についている律法学者たち、ファリサイ派の人たちの言葉は大切にしなさい。彼らの語る言葉はすべて守り、行いなさい。彼らの語られた言葉に神様のみ心を思い巡らしなさい。わたしはファリサイ派の人々と律法学者と議論をします。わたしは律法を破ろうとは思っていない。むしろ完成するために語っている。律法に示される神様のみ心を思い巡らす時、ファリサイ派の人々、律法学者の人々に神様のみ心、御旨を語るのです。律法は神様からの力強い道標です。神様のみ心が道標となってわたしたちを導くのです。ファリサイ派の人々律法学者はモーセの座に着いています。モーセの座に着く栄光の内にいます。神様の権威によってモーセの座に着いたのです。神様の権威によって人々に律法を教える、律法を解釈する力が与えられたのです。しかし、イエスは厳しく言われます。権威の内にある、栄光の内にあるとは、その人が神様の霊に満たされていることではないか。その者が始めに律法を守るのではないか。律法によって、神様のみ心を示すものなのではないか。
机に座って律法を覚えるのではない、律法を解釈するのではない。頭の中で律法を知るのではない。
彼らの行いを見倣ってはいけない。言うだけで実行しないからである。人に命じるだけで自分では荷物を負わないからである。人からの尊敬を求めてはいけない。褒められたい。一目置かれたい。人の世に生きている。わたしたちはこの世にあって、この世に属していないのではないですか。
わたしたちは先生ではない。師ではない。父ではない。子のお父さんになる、子に人の歩く道を示す。しかし、人々の中で父の力を持つのではない。
仕える者になりなさい。理屈を言わずに働く者になりなさい。自分を弱い者だと知りなさい。自分の小ささを知る者となりなさい。そのとき、神様と出会います。神様に包まれていることを知る。律法の心が見えるのではないでしょうか。

信仰とは見えないものに満たされることです。隣人のために働くことです。自然のために働くことです。疲れて自分を見つめた時、神様からの安心を知ります。



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