「待降節第2主日」(B年) 説教
2011年12月4日・加藤 英雄師

 

  今日は待降節第2主日です。天の父はこの世にご自分の子を送ろうとされた。その日を待つ。その子の名はイエス。イエスの誕生を待つのです。イエスがこの世に来られる。赤ちゃんとして生まれる。神様の「いのち」がこの世で生活する者となる。 そんなことを思いながら、今日の福音を読みます。

神の子イエス・キリストの福音の初め。 神のいのちに生きるイエスが今日から福音―喜びの知らせ―の姿を現すのです。 福音:いのちを喜ぶ。神様からの愛を喜ぶ。神様の道具であることを自覚して働く者となる。自然のために働く。人のために働く。隣人が幸せになる、それが福音。

その頃、ヨルダン川でヨハネが罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた。この終末の時、洗礼によって心を清めなさい、新しい生活の出発をしなさいと語っていたのです。預言者イザヤは語っています。主は言われる。わたしはキリストより先にヨハネを遣わし、キリストの道を準備させよう。主の道をキリストと共に歩きなさい。ヨルダン川で人々に信仰を求め、語り続けるヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。まさしく、ヨハネは終末の預言者エリアの姿であった。人々は悔い改めを述べ、力強く終末を語るヨハネにキリストを見たのです。ヨハネこそキリストではないか。ヨハネは言います。わたしよりも優れた方、わたしを超える方が来られる。わたしは水で洗礼を授けるが、その方は聖霊によって、人を清め、命を与え、人を神様と結ぶ。その方によって人は新しく生きる者となる。福音によって人は新しく生きる者となる。これこそ創造の業ではないですか。

終末。見える世界が終わってしまう。その日、人が皆、一人ひとり神様の前に立つ。わたしたちは今、終末にいます。キリスト・イエスが十字架にかかり、ご自分の命を天の父にささげられました。そして、新しい命に生きる姿を示されました。死を超える命がある。その命をわたしたち示されたのです。
イエスは言われます。わたしのもとに来なさい。わたしが示した道を歩みなさい。マタイ福音書ではこのように言われます。わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16・21-)

しかし、終末が来るといわれているのに、まだ来ない。今は本当に終末の時なのですか。ペトロは言います。終末は来ます。神様の思いと人の思いとは全く違う。神様は一人も滅びないで、皆が悔い改めるよう待っておられるのです。                        その日は気づかれないように、不意にやって来ます。その日にはすべてが滅びます。天も地も壊されます。しかし、聖なる新しい天地が来ます。すべてが滅びる、すぐに新しい天地の世界が始まります。

主と共にいる。主の命の元にいる。イエスこそわたしたちの主。イエスを証します。イエスが示されたそれぞれ一人一人の道を歩む。その時イエスの誕生が見えます。王である生まれたばかりの赤ちゃんが「飼い葉桶の中に布にくるまって寝ている」そのしるしが見えます。



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