「年間第12主日」(C年)説教
2013年6月23日・加藤 英雄師


 

  今日の福音の始めに、イエスがひとりで祈っておられた、とイエスの祈りの時を書いています。イエス様はよく祈っておられます。よく山の上で祈っておられます。でも、神様なのになぜそんなに祈るのですかと聞いてみたくなります。イエスの祈りは、天の父と一緒にいる時を持つ、静かに、父と交わる、いや、それ以上に父と一体になるのではないかと思います。イエス様の祈りは聖霊よって父と交わりの時を持つ、静かな時。その時、父と一つになっている時、イエス様は自分がありません。自分があって、自分がない。天の父と一つになっている。
イエスが祈っていた時、弟子たちも一緒にいました。イエスは弟子たちに問います。群衆にとってわたしは何者ですか。弟子たちは答えます。群衆はあなたに神様の力を見ています。神様の安心を見ています。神様の御言葉を、イエス様、あなたから聞いています。人々はあなたを求めています。イエスは人々が自分に何を求めているのかを聞きたかった。そして、人々が求めていることを受け取った。しかし、イエスはこの大勢の群衆に、話を聴きたい、病を癒してもらいたい、一緒に道を歩もうとしているこの群衆に、この世の出来事を超えた神様の出来事を見てほしいのです。  イエスは弟子たちに向かって尋ねます。それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか。ペトロが答えます。「神のメシア。」 神様によって油注がれた者。神様の力を持つ者。預言する力、王様となる力、祭司となる力を持った方です。これはイエスに対する、ペトロの、ひらめいた、思いつくままの表現です。マタイ福音書ではこの箇所をこう書いています。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
「イエスは言われます。あなたはわたしに、あなたの考えている神の姿を見ている。しかし、「人の子は苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、殺されてしまう。そして、三日目に復活する。 それでも、わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 わたしは、あなたにあなたの求めるような豊かさ、平安を与えない。人を支配するような力を与えない。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
 イエスは神様の力を持っているのに、神様の素晴らしさを語っているのに、わたしたちに生活の豊かさ、平安を与えてくださらないのですか。自分を捨てる、自分の理想を捨てるのですか。
イエスの姿が神様の姿です。イエスは神様の力を持っているから、罪を持っている人に、立ち帰らせるための慰め、希望、温かさを与えることが出来るのです。苦しんでいる人、悲しんでいる人に神様の素晴らしさを語るのです。わたしたちが力を持っている。与えるために神様が下さったのです。自分を捨てる。自分の豊かさを、命を求めるのではありません。神様の思い、隣人のために働くことが出来ますように。神様に、イエス様に従います。


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