今日、年間最後の主日に「王であるキリスト」を思い巡らします。神様はキリストが王です、キリストを見つめなさいと、キリストを送ってくださったのです。キリストは神の国の王です。あなたにとって神の国はどのような有様ですか。キリストは王。王に何を求めますか。
イエスはエルサレムへの道を歩みました。エルサレムに近づいた時、都が見えました、神殿が見えた時、イエスは泣かれました(ルカ19・41~)。 人々はイエスに神の力を見ていました。イエスは毎日、人々に神を語ります。神様の慈しみ、喜び、温かさー神様の恵みが人々を包んでいます、神様を見つめましょうと語ります。人々の心にイエスの言葉が深く入って来ます。また、病を癒し、悪霊を追い出します。イエスこそ神の力を示しています。 イエスの集団は小さい、しかし、イエスは力のある預言者。神様のもとに働いています。イエスに万軍の主がついています。イエスがエルサレムで力を示せば、その時から神の国が始まります。人々はイエスに神の国の王を見ています。
イエスは嘆きます。涙を流します。 エルサレムに平和が訪れる。神殿にまことの信仰が現れる。敵が来て、エルサレム、お前は四方から攻められる。お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。神殿が石の残らないほど崩される。神殿が信仰の場。信仰が積み上げられて神殿となる。信仰の石が一つも残らない。
イエスはご自身が神殿となるため、人の罪を贖うために、献げものとなるためににエルサレムに行くのです。イエスによってエルサレムが愛の場となるのです。
ローマはイエスを捕えた。十字架を背負わせ、人々の前を歩かせた。ゴルゴタへ向かう。ゴルゴタで十字架に釘付けされる。イエスが十字架にかけられた。十字架の上に札が掲げられている。「これはユダヤ人の王。」これがお前たちの王である。イエスは十字架の上で苦しんで殺されました。イエスは神の国を立てる力のない事を人々は見たのです。
民衆は十字架にかけられているイエスを見つめている。議員たちはイエスをあざ笑う。兵士たちはイエスを侮辱する。イエスと一緒に十字架にかけられている犯罪人の一人がイエスを罵る。神からのメシアなら、自分を救ってみろ。我々を救え。出来ないのか。十字架にかけられているもう一人の犯罪人がその者に言う。我々は自分の行いの刑罰として、この十字架にかかっている。この方は何の罪も犯していない。「イエス様、あなたが御国においでになる時には、わたしを思い出してください。」イエスは言われる。「アーメン。あなたは今日、わたしと共に楽園にいる。」
この犯罪人は、この時、人々の語っているイエスを見たのです。彼の目はイエスから離れない。静かに十字架にかかっている。十字架の上で祈っている。その姿は尊い姿。全く、人の物を奪うような形相(ぎょうそう)ではない。その姿に見入る。もう一人の犯罪人はイエスとつながりたかった。
民衆は、罪の償いとして苦しんでいる、この世の力に負けた十字架のイエスを見た。議員、兵士たちも、何の力もないちっぽけなイエスを見た。
敵によってエルサレムは滅ぼされる。神殿は壊される。信仰は崩れる。イエスと出会った者は三日で新しい神殿を見る。新しいエルサレムを見る。この世を超えた時、神様のみ手が見える。神の国が見える。求める者に与え、この世の物を失った時、神様の喜びに出会う。与え、与え、与え続けられたイエスが王。与える者が神の国を造っている。与えて、何もなくなった時、神様のいのちが注がれる。光に満たされる。
イエスの姿を見続けて行きたい、イエスに従って歩みます。 |