「年間第14主日」(C年)説教
2013年7月7日・加藤 英雄師


 

  イエスは宣教の大切さを、今日示されていると思います。イエスは12人を呼び集め、宣教に行きなさいと言われました。神の国を宣べ伝えなさい。病を癒しなさい。神様は律法の文字の内にいるのではない。神様は今も生きて、働いておられる。神様に出会った者、神様の憐みを知った者が神様の思いを告げ知らせるのです。机に座って聖書を読むのではありません、閉じ籠って祈るのではありません。 そして、今日72人を宣教に派遣されます。イエスの出来事を伝えるのです。出かけなさい。人と出会いなさい。出会う人の悩み、苦しみを聞きなさい。語り合いなさい。病を癒しなさい。神様のことを語り、神様からの業を行うのです。神様の喜びを語り、告げ知らせるのです。生きている…命は神様から頂いている。自然に支えられて生きている。人の中で、支え合って生きている。静かに周りを見渡すと、悲しんでいる人がいる、苦しんでいる人がいる。イエスは言います。その人たちと出会ったら、思いを全部語り明かすよう勧めなさい。
 人は皆小さい者、弱い者です。人は皆、正しい者でなければいけない、信仰深い者でなければいけない、と思っているのですか。イエスは問います。なぜ、それほど律法を大切にしているのですか。きちんとしている人、穏やかな人、能力のある人は安心できます。規則を大事にしている。しかし、イエスは言われます。わたしは律法によって呪われた者とされたのです。律法を大切にしない。イエスの業は悪魔の頭ベルゼブルの力によってなされるのだ(マタイ12・2-)と言われたのです。 律法によって自分を誇るのですか。この世で律法のうちに生きる。皆に認められる生活をする。それを誇るのですか。イエスは言われます。わたしたちはこの世に生活しています。しかし、この世に属していません。この世にあって神の国に生きるものとなるのです。今日の手紙で、パウロははっきりと宣言します。わたしにはイエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。十字架を誇ります。この世で恥ずべき十字架のほか、わたしたちに何が誇れると言うのですか。 十字架はこの世における刑罰です。しかし、わたしたちはイエスに神様を見ました。イエスの言葉に、イエスの業に神様の憐みを見ました。イエスの生き方が十字架への道となっていた。罪人を包む心が、律法を守れない人たちと一緒に食事をし、回心に招くその行いが、イエスの大きな憐みの心が十字架の道となっていったのです。一番大切なことをしたイエスが、その行いのために十字架にかかってしまった。パウロは世に対して、イエスの十字架にかけた世に対して反対しているのです。わたしは十字架の道を歩く。十字架はわたしの誇り。わたしは十字架の焼き印を身に受けている。 キリストの姿を見つめ、心に刻み、キリストの道を歩もうではありませんか。
神様を伝えます。神様と共にいる喜びを伝えることが出来ますように。悪を受けとめる大きさを持つことが出来ますように。どんな出来事があっても、いつも希望を持つことが出来ますように。


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