「年間第28主日」(C年)説教
2013年10月13日・加藤 英雄師


 

  アラムの軍司令官ナアマンは重い皮膚病にかかった。ナアマンは苦しんだ。神様に見捨てられた病だ、汚れた病だと思われていた。ナアマンはエリシャに癒しを頼んだ。エリシャはナアマンに会わず言う。ヨルダン川に身を七度浸しなさい。ナアマンは怒った。わたしに会いもしない、そして言葉だけで癒せるのか。ナアマンはエリシャが、重い皮膚病の自分の前で祈りを呪文のように唱え、この体に不思議なことを行うものと思っていた。家来が言う。あの預言者が命じたのは、ほんの些細なことです。その通り行いましょう。
ナアマンはヨルダン川に身を七度浸した。ナアマンの体は癒された。子供の体のように清くなった。ナアマンはエリシャに贈り物をしようとした。エリシャは受け取らない。これはあなたの対する神様の恵み。主に贈り物、感謝を捧げなさい。ナアマンは神の力、神の心を知ったのです。

ナアマンにとって苦しい、重い皮膚病が試練だったのではないでしょうか。試練が喜びをもたらした。

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。サマリア人とガリラヤの人がいる所です。これを信仰を持つ人と信仰のない人(ユダヤ教を認めない人)という所と読んだのです。イエスがサマリアとガリラヤの間のある村に入ると、重い皮膚病を患っている人たちがイエスを出迎えている。遠く立ち止まったまま、イエスに出会いたいと求めている。「出迎える」が「出会いたい」思いです。 重い皮膚病の人は町中には住めない。祭司に、あなたは汚れていると言い渡される(レビ13・3~)と独り宿営の外に出て住む。社会で働くことが出来ない。(レビ13・45~)

重い皮膚病の人たちはイエスめがけて叫ぶ。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」かられは体全体で叫んでいる。心の底から叫んでいる。きっと、イエスは重い皮膚病の人たちの所へ行く。イエスはその人たちの病を見た。心を見た。そして、心を動かされた。
「祭司のところへ行って体を見せなさい。」 祭司のところへ行き、体を調べてもらう。治っているかを調べ、治っていたら、清めの儀式を行う。(レビ14・1~)重い皮膚病の十人の人たちはそれぞれ祭司のところへ行った。 その中の一人は、道を行く途中、清くなったことを知った。喜んだ。神様の恵みが、神様の慈しみがわたしを包んだ。神様がわたしに命を与えられた。この人はイエスのもとに戻って来た。イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。イエスは言われる。立ち上がって、道を歩きなさい。あなたの信仰があなたを救った。 このサマリア人は、この重い病気で神様から罰を受けていると思っていた。社会から外され、家族と一緒に住めない。働けない。生きる喜びがない。病によって奪い取られてしまった…と思っていた。 イエスに出会った。イエスに無我夢中で叫んだ。憐れんでください。祭司のところへ行きなさい。その時、イエスが体の中に入って来た。歩いている時、心が清くなった。心が癒された。心が温かくなってきた。自分のこの体が周りに包まれているように感じた。体が癒された。生きる力が湧いてきた。

イエスは言われる。体の癒しを求めるのではなく、心の癒しを求めなさい。生きる希望を求める。 そして、立ち上がって、歩き始める。 立ち上がるとは復活です。新しい「いのち」のうちに歩き始めるのです。

わたしたちは命を求めるために叫んでいますか。


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