「主の洗礼」(A年)説教
2014年1月12日・加藤 英雄師


 

  今日は主の洗礼を祝います。 わたしも以前、なぜイエスが洗礼をお受けになったのかが疑問でした。洗礼とは、神様に出会い、神の子となる大きな恵みです。悔い改め、水によって、この世に死に、新しく生きる者となる。水によって心と体が清められる。罪がぬぐわれる。新しい衣を着る。新しい人となる。教会の一員となる。 しかし、思ったのです。洗礼を形で捉えているのではないか。洗礼は神様への出発。洗礼によって、神様の道を知り、神様への道を歩むのです。洗礼は祝いの出来事ではなく、洗礼から道が始まるのです。その道は人が生きて行く苦難の道です。自分の苦難以上に、隣人が苦しんでいる出来事を見る。その道は与える者になる道です。愛する者となる道です。
 イエスがガリラヤのナザレから、ヨルダン川で洗礼を授けているヨハネのところに来ました。ヨハネはヨルダン川に集まっている人々に、悔い改め、回心を求め、そして、新しい「いのち」に生きなさいと洗礼を授けていました。人々は洗礼を受けるために並んでいます。イエスの順番になりました。ヨハネはイエスに気付いて言われます。あなたはイエス、わたしがあなたから洗礼をうけるべきなのに、洗礼を受けるために、わたしのところに来られたのですか。イエスは言われます。ヨハネ、止めないでほしい。正しい事を行うのは我々にとって、ふさわしい事ではありませんか。 イエスは洗礼を受けました。水の中から上がられました。その時、天がイエスに向かって開きました。神の霊がイエスの方に降って来ました。その時、天から声が聞こえたのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」
 今日の福音から少し先の出来事なのですか、ヨハネの福音書を読みました。こんな箇所があります。ヨハネが洗礼を授けていた時、ユダヤ人との間で清めのことで論争が起こった。これは洗礼の権威の事ではないかと思ったのです。ヨハネはユダヤの公の典礼にはない洗礼によって人々を清めている。その権威はどこから来たものか。ヨハネは言います。水によって清める、これは神様からのものではないか。洗礼を授ける、神のみ心によって新しく生きる。天の父によって清めるのです。洗礼は神様からの恵みです。
 イエスは言われます。洗礼による出発は、神様からの恵みによる出発は正しい事です。我々にとってふさわしい事ではありませんか。 イエスは家畜小屋で命の出発をされた。また、洗礼によって人々の中から出発された。わたしと一緒に神様へ向かって歩みましょう。人々に愛の業を行うために一緒に歩きましょう。
 ヨハネは言います。わたしが、イエス様、あなたに洗礼を授けるのですか。わたしは弱い者です、小さい者です。天の父は言われました。イエスはわたしの愛する子、わたしの心に適うもの。イエスと共に神への道を歩みなさい。ヨハネにとってイエスへの洗礼は神様から与えられた出発です。イエスを知る出発ではないでしょうか。
 もう一度言います。洗礼は祝いの出来事ではありません。神様への道の出発です。洗礼からの道はイエス様と一緒に歩く道です。与える者になって行く。歩めば歩むほど、ますます神様を知る、ますますイエス様の姿を知るのです。


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