2014年度加藤神父の説教

「ラテラン教会の献堂」
2014年11月9日
「死者の日」
2014年11月2日
「年間第30主日」(A年)
2014年10月26日
「年間第29主日」(A年)
2014年10月19日
「年間第28主日」(A年)
2014年10月12日
「年間第27主日」(A年)
2014年10月5日
「年間第26主日」(A年)
2014年9月28日
「年間第25主日」(A年)
2014年9月25日
「十字架称賛」
2014年9月14日
「年間第23主日」(A年)
2014年9月7日
「年間第22主日」(A年)
2014年8月31日
「年間第21主日」(A年)
2014年8月24日
「年間第20主日」(A年)
2014年8月17日
「聖母の被昇天」
2014年8月15日
「年間第19主日」(A年)
2014年8月10日
「年間第18主日」(A年)
2014年8月3日
「年間第17主日」(A年)
2014年7月27日
「年間第16主日」(A年)
2014年7月20日
「年間第15主日」(A年)
2014年7月13日
「年間第14主日」(A年)
2014年7月6日
「聖ペトロ 聖パウロ使徒」
2014年6月29日
「キリストの聖体」(A年)
2014年6月22日
「三位一体の主日」(A年)
2014年6月15日
「聖霊降臨の主日」(A年)
2014年6月8日
「主の昇天」(A年)
2014年6月1日
「復活節第6主日」(A年)
2014年5月25日
「復活節第5主日」(A年)
2014年5月18日
「復活節第4主日」(A年)
2014年5月11日
「復活節第3主日」(A年)
2014年5月4日
「復活節第2主日」(A年)
2014年4月27日
「復活の主日」(A年)
2014年4月20日
「復活の徹夜祭」(A年)
2014年4月19日
「聖金曜日」(A年)
2014年4月18日
「聖木曜日」(A年)
2014年4月17日
「受難の主日」(A年)
2014年4月13日
「四旬節第5主日」(A年)
2014年4月6日
「四旬節第4主日」(A年)
2014年3月30日
「四旬節第3主日」(A年)
2014年3月23日
「四旬節第1主日」(A年)
2014年3月9日
「年間第8主日」(A年)
2014年3月2日
「年間第7主日」(A年)
2014年2月23日
「年間第6主日」(A年)
2014年2月16日
「年間第3主日」(A年)
2014年1月26日
「年間第2主日」(A年)
2014年1月19日
「主の洗礼」(A年)
2014年1月12日
「主の公現」(A年)
2014年1月5日
「神の母聖マリア」(A年)
2014年1月1日
「主の降誕(日中のミサ)」
(A年)
2013年12月25日
「主の降誕(夜半のミサ)」
(A年)
2013年12月25日
「待降節第4主日」(A年)
2013年12月22日
「待降節第3主日」(A年)
2013年12月15日
「待降節第1主日」(A年)
2013年12月1日
「王であるキリスト」(A年)説教
2014年11月23日・加藤 英雄師
 今日は王であるキリストを黙想します。 
BC1000年ごろ、人々は預言者サムエルに言います。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王をたててください。(サムエル上8・1~)
  他の国々は王を立てて強くなっている。わたしたちも強くならなければ攻められてしまう。 神様はイスラエルに王を立てることを許した。王に力が集まる。王は土地、人々を自分のものにする。 与えられた大きな力を人々のために使いなさい。王は先頭に立って、民を率いるのではない。後ろにいて民を押し上げる。民を世話する者それが王ではないか。
エゼキエル書は言います。イスラエルの王は民を見ていない。民のために働いていない。羊飼いのいない羊は散り散りになっている。 主は言われる。わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。羊たちは自分の歩むべき道が見えない。いのちの尊さが見えない。わたしはわたしの羊がどこにいても、どのような状態であっても捜し出す。その者にわたしが神であることを、わたしがあなたの父であることを、あなたをどれほど愛しているかを示す。わたしは自分の道を見失った者、追われた者、傷つき、弱った者を包み込む。わたしは公平をもって彼らを養う。
わたしたちは神様の声を聞きます。あなたは何を求めているのか。どのような道を歩いているのか。あなたは愛すべき隣人とつながっているか。
傷ついた者、弱っている者、体、心が動かない人が生きることが出来る。豊かな生活を送っている者、能力のある者は働くことの出来ない人が生きることが出来るように助けるのです。 人は、すべての人は生きることが出来る、それが神様の公平ではないですか。

神様はすべての人の父です。人は神様からいのちを注がれてこの世に生まれた。日々の生活を、生き生きと生活し、生きる喜びを味わいます。そして、この世の旅路を終え、神様のもとに戻ります。昔の人は、死んだ人は土に帰る、いなくなってしまう、神様から全く離れてしまうと思っていました。それは違います。死んだ人も神様の内にある。

  キリストは殺されました。死にました。しかし、新しい命の内に復活された。新しい命に生きている姿を弟子たちに、多くの人たちに示されました。キリストは永遠のいのちへの道を示されています。
キリストから示されている道を歩みなさい。その道は天の国に通じる道です。

イエス・キリストは終末の日、裁きの日の出来事を語ります。 その日、わたしたちは神様の前に立ちます。神様は問われます。あなたは、あなた方の教会はわたしの栄光のうちに働きましたか。
わたしたちは自分を見つめます。自然とつながっている、人とつながっている生活をしただろうか。神様を見つめ、思い巡らしている生活を送っていただろうか。自然に感謝する、春、夏、秋、冬、四季に自然の生きる姿を見る。それ以上に、自然の生きている姿はもっと深いことを知る。自然が生きてすべてが生きる。わたしたちは自然の中にいる。自然とつながる。自然のために働いていただろうか。人を大切にする。特に隣人を大切にする。人とつながっている。隣人のために働いているだろうか。神様から自然を通して、人を通してこんなに多くの恵みをもらっている。

主は言われます。裁きの時、すべての人をわたしの前に集める。羊飼いが羊と山羊を分けるように、人々をより分ける。羊に言う。あなたたちはわたしの本当の友であり、わたしの子です。わたしのために善く働いてくれた。 一方の山羊に言う。お前たちはわたしの羊ではない。お前たちは羊の襟巻をしている山羊である。お前たちはわたしのために何もしてくれなかった。
いいえ、わたしたちはあなたのために一生懸命奉仕しました。神父さん、司教さんが病気であると知った時は、菓子折りを持って、お見舞いに行きました。祈りました。回復のミサをささげてもらいました。神父さん、司教さんの誕生日を祝いを、霊名の祝いを心を込めて祝いました。たくさんの奉仕をしながら、復活祭を祝いました。降誕祭を祝いました。 
主は言われます。お前たちは隣人の声に耳を傾けない。隣人を見ようともしない。牢にいる者に無関心ではないか。両親と一緒に生活できない子供たちに無関心ではないか。淋しくて仕方がない老人たちに無関心ではないか。この小さな者たちの中にわたしはいるのである。この者たちを通してわたしにつながってほしかった。お前たちはわたしに何もしてくれなかった。

王であるキリストを思い巡らします。王であるキリストを賛美します。
主は言われます。あなたがたも王となりなさい。自然のために働きなさい。人のために働きなさい。与える者になった時、天の国の有様が見えます。

 
「年間第33主日」(A年)説教
2014年11月16日・加藤 英雄師
  イエスが天の国のたとえを語られます。天の国はいろいろなたとえで語られます。それぞれが心に思いあたるたとえです。天の国は神様のみ心の満ちた所、その中で働いている人の姿です。天の国は美しい、広々とした、明るい写真の姿ではなく、映画です。み心の内に働く人々の姿です。生き生きと働く姿です。働かなければ天の国は入れません。この世で十分働いた。もう働くのはいやだ。しかし、天の国で休んでいたら、働きたくてしょうがなくなります。自分の孫のために祈りたくて仕方がなくなる。そっちへ行ってはいけないよ。困っている人の事をもっと考えなさい。
ある主人が留守にする。僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。任せるから働いておくれ。一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントン預けた。こんなに大きな額を任せられた。1タラントンは6000デナリオン、1デナリオンは一日分の賃金。一日1万円とすると、1タラントンは6000万円、2タラントンは1億2000万円、5タラントンは3億円です。
おい、この3億円を預けるから、1億2000万円を預けるから。6000万円を預けるから自由に使いなさいと言われる。緊張と一緒に信頼してもらっていることが嬉しい。働いた。働いた。主人が帰って来た。彼らと清算を始める。5タラントン預かった者が言う。ご主人様、ほかに5タラントン儲けました。2タラントン預かった者が言う。ご主人様、ほかに2タラントン儲けました。主人は褒める。お前たちは忠実な良い僕だ。少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。
1タラントン預かった僕はお金を土の中に埋めて隠しておいた。ご主人様、これがあなたから預かったお金です。1タラントンの僕は思った。このお金は主人のお金だ。損をしてはいけない。なくしてはいけない。 ご主人様、あなたは厳し方だと知っています。蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集める方だと知っています。主人は1タラントンの僕を怒った。怠け者の悪い僕だ。そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこ泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
1タラントンの僕は何もしなかった。主と出会う日が来る。いつも用意していなさい。動きなさい、働きなさいと求められているのです。生きるとは自分の求めていることを行う。部屋にいないで歩きなさい。出会いなさい。自分を囲んでいるものと出会うのです。出会ってつながりなさい。見覚めていなさい。支えられている、支える者となりなさい。
求められている。
・たとえば、スケートの練習をする。始めは立てない。少し滑ることが出来るようになった。曲がることが出来るようになる。しかし、スケート靴を履いて、氷の上に立たなければ、スケートの練習にならない。やろうとしているのですか。先生が厳しい。先生は、出来る、出来ないではなく、生徒の心に厳しいのではないですか。
・種蒔きの人が種蒔きの種をたくさん預けられた。蒔きなさい。たくさん蒔きなさい。種を蒔いて目が出なかったら怒られる。土のないところに蒔いてしまったら怒られる。だから蒔かない。
あなたは種蒔きの仕事を任せられているのではないですか。
・イエスは言われました。わたしのもとに来なさい。わたしの中に入り、わたしの水を飲みなさい。わたしの水を飲んだ者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7・37−) その水が流れるところは清くなる。生きる力が注がれる。
しかし、あなたの水が流れなかったら、水がよどんだら、その水は死んでいる。もう、その水はいのちの水ではない。その水の持っている清くする力はなくなっている。
1タラントンの僕よ、あなたは隣人を見ていますか。隣人を見ようとしていますか。苦しんで手を伸ばしている人の手を見ていますか。ある若者は、父さん、母さんも、話をしたいのに、心を聞いてもらいたいのに、聞いてくれる人がいない。施設は援助を求めている。
この預かったお金は商売のお金なのですか。 これはお金の話ではありません。でも、もしお金の話と考えれば、商売をして損をするかもしれないではないですか。怒られます。でも、言います。怒られなさい。
あなたは何を売るつもりですか。どこで売るのですか。どのようにして売るのですか。相手は何ですか。 損をした。 相手が何であるか、何を求めているかを勉強するのです。怒られなさい。自分が何をしているのかしっかりと思いなさい。それは1タラントンの僕の利益ではないですか。
自分の城に閉じ籠っていてはいけない。自分を守ってはいけない。自分の得を求めていてはいけない。この男は、この1タラントンの男は天の国で働くことは出来ないのです。

 
「ラテラン教会の献堂」説教
2014年11月9日・加藤 英雄師

  エゼキエル書を読みます。 
わたしは神殿に連れ戻された。目の前に神殿を見た。神殿が動いている、働いている。神殿の中から、神殿を造られた方のみ心、力によって水が湧き出ている。神殿から出た水が流れている。水は川となり、海に入る。その川が流れて行くところでは、すべてのものが生き返る。その水によって「いのち」を取り戻す。川のほとり、その岸にはあらゆる果樹が大きくなり、葉が茂る。果樹は食用になり、葉は薬用となる。 生きた水は命を育てる。潤いを与える。水によって豊かさが生まれる。そして、水によって清くなる。 
ここを読んでイエスを思いました。あぁ、これこそイエスの出来事ではないか。
イエスは言われます。「渇いている人はだれでもわたしのところへ来て、飲みなさい。わたしを信じる者は……。その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7・37−38) 「わたしが与える水を飲む者は決して渇くことがない。わたしが与える水はその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。(ヨハネ4・14) 
イエスは救いの泉です。(イザヤ12・3) 神殿の水は汚れた海に入って行く。イエスはご自分が汚れた海に入って行かれた。汚れた海は、実は、わたしたちの町ではないですか。

イエスは神の神殿。イエスは神様の場。町で、村でイエスは神を語る。イエスは病を癒す。悪霊を追い出す。死者が生き返る。イエスは神の力で働かれる方。イエスの姿の中に神様がおられる。

「過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。」
イエスは弟子たちと共にエルサレムで過越祭を祝います。過越祭は新しい出発です。エジプトからイスラエルが脱出し、イスラエルに向かう旅に出た。生きる命への旅です。今、イエスはわたしたちに言われているのです。ミサは最後の晩餐。出発の時の食事です。イエスが新しい土地に向かい出発する時です。過越しの食事をしたわたしたちが、イエスと共に旅に出るのではないでしょうか。アブラハムが今いる自分たちの土地を離れ、神様の示された土地に出発した。モーセがエジプトからイスラエルを出発させた。
あなたは出発していますか。 イエス様、わたしたちはどこに向って歩んでいるのですか。
わたしの中に入りなさい。その時新しい世界が見える。「わたしに国はこの世に属していない。」「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。(ヨハネ17・1~)

イエスは神殿に入った。そして、「異邦人の庭」というところで牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった。イエスは縄で鞭を作り、その者たちを追い出し始めた。「わたしの父の家をこれから商売の家としてはならない。」 地方から巡礼に来た人たちが、いけにえをここで調達する。ローマのお金を神殿で使えるように両替をする。ユダヤ人たちは異邦人の庭で商売をしているのを悪いと思っていない。むしろ便利だと思っている。この男は何を思ってこのような事をするのか。ユダヤ人たちはイエスに言う。あなたがこんなことをするのには、するだけの権威のしるしを見せてほしい。イエスは答えて言われた。この神殿を、あなた方のこの神殿を壊しなさい。神様の神殿を三日で建て直す。あなたたちはこの神殿に神様を閉じ込めている。この神殿によって生きている神様に出会いなさい。あなた方は生きている神様を見ようともしない。
わたしたちに言われているのです。神殿を壊し続けなさい。(第Uバチカン公会議は神殿を壊したのです。)

イエスは神殿です。イエスからいのちの水が流れています。いのちの水を飲みにイエスのところに行きなさい。飲んで飲んで、水におぼれなさい。あなたから命の水が流れるようになる。
そして、パウロははっきり言います。「神の神殿を壊すものがいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです。」

 
「死者の日」説教
2014年11月2日・加藤 英雄師
  今日、わたしたちはこの世の旅を終えて、神様のもとに戻った方たちを思い起こします。わたしたちは何かきっかけがないと、死んだ人を思い起こすことはないように思います。今日のこの日を大切にしたいと思います。死んだ人を思い起こす。中でも肉親との別れが一番強く心に残るのではないでしょうか。

わたしは両親が今天の国にいますが、母の死が一番強く心に残っています。65歳で癌で死んだ。もっと親孝行しておけばよかった。苦労ばかりの、楽しい事のない生涯だった。そんなことを思っています。わたしの父と母は臨終洗礼でした。
   生きるとは何ですか。死ぬとは何ですか。
  生きるとは今、生きていることです。生きている。生き生きと生きなさい。光のうちにいる。いのちの水を飲む。人は生きている世界、自然の中にいる。支え合って生きている世界の中にいる。生きることは愛すること。支えられていることを知り、支える者となる。生きることは、自然のために、人のために働くことです。 生きる―命が与えられた。 神様がご自身の息吹を人に注がれた。生きるものになりなさい。あなたを愛する。わたしたちは神の子となるほど愛されているのです。
死ぬとは:この世から離れる事です。神様から呼ばれる。わたしのもとに戻りなさい。別離は苦悩です。別れはその人との「つながり」が切れてしまう。顔を見ることも出来ない。話すことも出来ない。一緒に笑うことも出来ない。神様はすべての人のこの世の命を取り去ります。この世を去った人と本当につながりが切れてしまうのか。教会は宣言します。すべての人は神様の命に生きている。愛のうちに生きている。
何ごとであれ、だれであれ、わたしたちを神様の愛から引き離すことは出来ない。(ローマ8・35)
この世で悪い事ばかりやった。みんなから、あいつは悪い奴だと言われていた。その人がひどい死に方をした。みんなは、あんな死に方は当たり前だという。
でも、思います。その悪人のその苦しさが、その人の罪の償いになればいい。
ある人の生涯は苦しみばかりであった。その苦しみはきっと、神様からの試練。その苦しみを受け取り乗り越えた時、天の国が待っている。
神様、どんな人でも、あなたの前に立つ人を地獄に落とさないでください。煉獄の深い深い暗闇に落としてください。そこで苦しみ、神様の愛を知り、自分の罪を認め、悔い改め、神の名を呼び始めることが出来るようにしてください。罪が垢となって、人の肌になっている。人の肌の一部になっている。それをいのちの水で削ぎ落とす。
わたしたちは煉獄にいる人たちのために祈ります。
わたしたちは死んだ人のために祈ります。
神様、亡くなったすべての人に心を留めてください。
 
「年間第30主日」(A年)説教
2014年10月26日・加藤 英雄師
 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。」
  寄留者は外国人です。内的な寄留者を考えて見ました。仲間に入り辛い。共同体にすんなりと入れない。ある人はぽつんと語ります。自分は寄留者になってしまった。友だちがいない、自分だけが浮いている。みんなの目が怖い。自分がここで外国人であったら、帰る所がある。わたしには外に出て行くところがない。 日本にいる外国の人、特にアジアの人に心を留めたい。そして内側に心を閉じ込めてしまう人に心を留めたいのです。
あなたが声をかける者となりなさい。その人と友となりなさい。寄留者がどれほど苦しいか、助けがどれほど必要か。その人を心にかけなさい。 「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」
夫がいない、家庭がない。家長制度がきちんとしている社会、お父さんが大黒柱になっている社会で、寡婦、孤児は疎まれます。社会の共同体に入れない。安心とのつながりがない。
苦しめてはならない:つながりなさい。ほっておいてはいけない。話を聞く者になりなさい。その人に安堵の場があったらいい。その人たちに心を留めなさい。
  その人が神様を知っているなら、その人は叫ぶ。神様は必ずその叫びを聞かれる。
  神様はわたしたちに言われます。あなたが寡婦となった時、孤児となった時、寡婦の苦しみが分かる、孤児の苦しみが分かる。寡婦の苦しみがどこから来るのか、孤児の苦しみがどこから来るのか分かる。
  神様は憐れみ深い方。苦しんでいる人、悲しんでいる人に心を向けておられる。苦しんでいる人悲しんでいる人に配慮なさる。
「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」ファリサイ派の律法学者がイエスに尋ねた。
 わたしたちは律法というと、まず、モーセの十戒、それに続く契約法典を思い浮かべます。
そして、レビ記、民数記、申命記の中にある神様から与えらえた法律を思い浮かべてしまいます。律法とは神様与えられた規律だと思っている。
このように守りなさい書かれているのが律法だと思っているのです。

ところで、モーセ5書が聖書で律法の書と呼ばれています。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5点がモーセ5書です。
例えば、創世記も律法の書です。ちょっと創世記を見てみたいと思います。
創世記1章から11章を原初史と言います。イスラエルが始まる前の、神様の業です。
@天地創造…万物の創造、人の創造‐アダムとエバ、エデンの園
A蛇の誘惑‐神から離れてしまう。 原罪が生まれる。
Bカインとアベル アダムとエバはエデンの園を追われた。 カインとアベルが生まれた。              カインはアベルを殺してしまう。
C洪水 ノアの方舟 新しく世界が始まる。
Dバベルの町 言葉がバラバラになった。バベルの塔は成しなかった。           都会に集まってはいけない、散りなさい。
創世記1章から11章までの内容です。これが律法の一部です。
神様の言葉がどの出来事にも響いている。神様の言葉が響いて心と体を包む。神の言葉はわたしたちに安心をもたらすものであった。ゆったりとさせる言葉、楽しい、喜びが湧いてくる言葉、希望の言葉、言葉が歌になってしまう言葉だった。
  しかし、今、神様の言葉はわたしたち、人を規制する言葉、律法はわたしたちを規制する言葉となっている。あぁ、そうか、わたしたちは原罪に閉じ込められていることを知ったのです。
あなたたちは原罪を越える道を歩みなさい。原罪の内にある自由は欲求を求める自由です。 自由とは生きる自由です。自分が生きる自由を求めるのではない。人が皆生きる。そのために働く自由です。自分が生きるために働くのではなく、隣人が生きるために働くのです。
*蛇の誘惑。人は神様の思いを裏切ってしまった。神様の言葉より蛇の言葉を選んだ。
*カインとアベル。カインは自分が父に愛されたかった。アベルが、父の自分への愛を邪魔した。          アベルを殺してしまおう。
*ノアの方舟。神様が求めている。山の中腹で大きい舟を造りなさい。神様の思いです。ノアは神様の指示通り、まわりの皆に馬鹿にされても、何か月かかっても家族で舟を造ります。 *バベルの町 力強いとは何ですか。言葉は一つ。人を殺してしまう一致はやめる。神様は言葉をバラバラにされた。そして言われます。都会に集まるのはやめなさい。都会に自然はない。散りなさい。自然の中で生きるのです。人はそれを嫌がった。

創世記を始めを読んだだけでも、人とは何かを思います。神様の思いを、神様がつくられたすべてのものを思い巡らします。そして、心を引き締めて思います。人とは何ですか。人は小さい、本当に小さい、人は弱い。本当に弱い。人はどのように生きるのですか。
神様を見つめて生きる。心の目、心の耳で神様を見つめる。
律法を見る。心の目で見る。神様のみ心から語られた律法は示します。「生きなさい。」
文字の律法は求めます。悪い事をしてはいけない。
預言者は神の言葉があなたに迫っていますと語ります。言葉は生きている。  

生きるとは愛することです。つながることです。神様を愛する、自然を愛する、人を愛する。
ファリサイ派の律法学者がイエスに問います。「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは答えます。神様のみ言葉のうちに入りなさい。そして、隣人のために働きなさい。律法の中で一番大切な掟、聖書に示される一番大切な出来事は「生きる」ということです。愛することです。
神様を愛しなさい。隣人を愛しなさい。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。


 
「年間第29主日」(A年)説教
2014年10月19日・加藤 英雄師
   今日のイザヤ書は、ペルシャ王キュロスのバビロン征服を語ります。神様は善の力です。人々に善を行うように導きます。人の前にはいつも善と悪がある。善は厳しい道。悪は緩やかな、楽しい道。しかし、あなたは善を選びなさい。しかし、神様は善の力、悪の力のすべてを行うことが出来るのです。出来事はすべて神様からのものです。善い出来事、悪い出来事。出来事がわたしたちに与えられる。善い出来事が与えられる。嬉しい。悪い出来事が与えられる。試練として受け止める。悪が与えられた、それは試練の時。悪と戦い、悪を乗り越え、悪に善を示しなさい。
  神様はペルシャの王キュロスを選ばれた。キュロスによってバビロンにいるイスラエルを解放する。 主は言われます。わたしはキュロスに油を注いだ。わたしは、キュロス、あなたの名を呼んだ。あなたに称号を与ええた。しかし、その出来事をあなたは知らない。
  そして、実にペルシャ軍はバビロンい無血入城したのです。
  人々は見ることになる。ペルシャ王キュロスによってイスラエルのバビロン捕囚は解放された。
わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。
イエスは毎日、町に出て、人々に神様を語っています。神様のみ心語ります。
神様はどこにいますか。あなたの横にいます。あなたの後ろにいてあなたを支えています。神様はわたしたち一人一人を心にかけ、心を見ています。生きている姿を見ています。あなたは生活を喜んでいますかと話しかけているのです。悲しんでいる人、苦しんでいる人は神様に語りなさい。神様はわたしたちのお父さん、お母さんです。
ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々はイエスに問うのです。あなたにとって律法とは何ですか。あなたは律法の外にいるのですか。神様は律法の内にみ心をあらわしているのではないですか。律法をきちんと守ることによって神様と出会うのではないですか。律法をないがしろに出来ない。
 ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々はイエスの語る言葉に宿る神様の豊かさ、憐みの心を認めない。イエスの業に神様の慈しみを認めない。
イエスを神を冒涜するものとしてとらえ、殺してしまいたい。イエスは神様からのものではないと宣言したいのです。ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々はイエスのところに行って尋ねます。
「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」 イエスは言われます。なぜ、わたしを試そうとするのか。 ファリサイ派の人たちよ、神様の憐みを語り合おうではないか。清さについて語ろう、祈りについて語ろう、すべての祝福の源となるイスラエルの信仰の道について語ろうではないか。 皇帝に税金を納めることは律法にかなっているのかと問うのか。 デナリオン銀貨を見せなさい。これは誰の肖像と銘か。皇帝の肖像と銘です。皇帝の肖像は皇帝に返しなさい。神の姿であるあなた方は神に帰りなさい。肖像と姿は同じ言葉です。あなたの心に神様の姿が刻印されています。人は神にかたどって、神様の似姿として造られた。神の姿を持つあなたは神に帰りなさい。 神様は人に心を与えられた。すべての人に心を与えられた。それも神様の心を与えられたのです。
すべての出来事を大きな心をもって受け止める事が出来ますように。
 

 

 

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