「三位一体の主日」(A年)説教
2014年6月15日・加藤 英雄師


 

 三位一体:三つの方の本質がまったく一致しなければ、存在でない。三つの方の本質が一つである時、三者が働くことが出来る。三位一体。完全に三者の姿―父と子と聖霊。完全に一体の名―神様。  今迄、わたしたちは神様はお一方。神様は天におられると教えられてきた。
 わたしたちはイエスという青年に出会った。イエスに神のみ心を感じた。イエスは町に出て人と出会う。苦しむ人、悩んでいる人、悲しんでいる人、希望を失なっている人を見る。話してごらん。
イエスはその人の苦しみをうけとる。その人の悲しみを受け取る。イエスは神を語った。安息日、イエスは会堂で語るイエスの説教は神のみ心であった。人々は驚いた。イエスの説教は生きている。神様の憐みが響いてくる。喜びがある、力強さがある。イエスは病を癒す。悪霊を追い出す。人々はイエスは死んだ人を生き返らせたということを知る。
イエスは言います。「もし、わたしが神の指をもって悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方のところにすでに来ているのである。」(ルカ11・20)

律法を守らない人は罪人である。罪を犯した人は贖罪の生け贄をもって祭壇に捧げなさい。そのように教えられている。イエスは言われます。律法は神様の心。神様のみ心のうちに悔い改めなさい。律法を守るとはそういうことではないか。自分の心を見つめなさい。神様に語りなさい。そして、神様のもとに帰りなさい。 ファリサイ派の人たち、律法の専門家は言います。イエスは律法を大切にしていない。イエスはイスラエルの信仰から離れている。イエスの神はわたしたちの神ではない。ある人は言います。「イエスは悪霊の頭ベルゼブルによって悪霊を追い出しているのだ。」(ルカ11・15) 大勢の人々はイエスの希望を持っていました。イエスの話を聞きたい、病を癒してほしい。大勢の人がイエスの周りに集まる。イエスについて行く。
そして、イエスの神様の力を見たのです。包み込むおおらかさ。罪を癒される力強い優しさ。暗闇に沈んだ人の心に光を灯してくださる。
人々はイエスが捕らわれたと聞いて驚いた。イエスは鞭で打たれ、十字架を背負わされ、ゴルゴタへの道を歩いた。神の力はイエスを自由にしなかった。無力なイエスがいた。十字架に釘付けされ、死なれた。

イエスの出来事は何だったのですか。

「神はその独り子をお与えになるほどに、世を愛された。」 父が子を世に送られた。それほど世を愛された。世は神から離れた所というところです。世は神様によって与えられたところではなかったのでしょうか。この世では神様は忘れられている。神様と共に住んだ、自然と共に住んだ、喜び、楽しみの世界だったのです。神様から離れたところになってしまった。この世を愛する、この世に住む人を愛する。神様を忘れてしまっている人、自分の世界に閉じこもり、友のない、隣人が見えない、自然が見えない人を愛する。生きている、自分の欲求のうちに生きている。平安を壊す人、安らぎを壊す、争う人を愛する。その人たちを愛する、悪と呼ばれている人を愛す。もう一度神様のもとに戻って来てほしい。独り子、イエスの姿を見なさい。イエスの生活を見なさい。天の父はいイエスをあなたたちに与えられた。人々はイエスによって神の憐み、慰めを知った。暗闇にいる人が光を見た。生きる希望を持った。病が癒された。イエスと出会う。イエスを信じなさい。

人に救いを知らせるため、永遠にいのちを示すため、神を知らせるため、父はイエスをこの世に送られた。それ以上に、イエスは十字架の刑、屈辱、侮辱を受け、苦しめられて、いのちを奪われたのです。それは世を救うためです。永遠の命を示すためです。
イエスの十字架は世を裁くためではない。世を救うためだったのです。
神の子イエスを信じる者は救いを知る。信じない者は既に裁かれている。

弟子たちは死なれたイエスが新しい命に生きている姿を見た。イエス様は人を超える力を持っている。命を超える力を、悪霊を超える力を持っている。
イエスは言われます。
わたしはある。(ヨハネ13・19) 
わたしを見た者は、父を見たのだ。(ヨハネ14・9) 
わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。(ヨハネ14・11)
父が持っておられるのものはすべて、わたしのものである。(ヨハネ16・15) 
わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。(ヨハネ17・10)

聖霊によって父と子は一つ。
聖霊はいのち、つながりをもたらす神。
ものを存在させる力、消す力。
聖霊がおられなければ、すべてのものはその場所にいない。

わたしたちは信仰宣言をします。
イエスはまことの神、まことの人。
父と子と聖霊:三位一体がわたしたちの神様です。



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