「年間第16主日」(A年)説教
2014年7月20日・加藤 英雄師


 

  イエスは天の国を語られます。人々に、天の国はどのようなものかを、理解させるために語ってているのではありません。天の国はこのように働いている。その天の国の姿を語られるのです。
主よ、畑に善い種を蒔いたのに、毒麦が生えています。行って、抜き集めておきましょうか。いや待ちなさい。刈り入れの時まで育つままにしておきなさい。刈り入れの時、毒麦を集めるよう、刈り取るものに言いつけよう。 毒を持つ種が芽生え、茂って行く。毒麦の隣に生えている善い麦は毒麦に気付きます。激しい誘惑に悩まされる。隣の麦は主に言います。この麦は毒麦だ取り除いて欲しい。主は言われます。一緒に育ちなさい。その麦を追いやるのではなく、むしろ、その麦とつながったらいい。その毒麦が神様の恵みを知ったらいい。神様の慈しみ、温かさを知り、神様は罪を清めてくださる方だと知ったらいい。あなたは毒麦によって忍耐を学びなさい。自分に襲いかかる誘惑を見つめなさい。悪を目の前にする自分の信仰を見つめなさい。悪を包みこめるほどの大きな心が持てればいい。悪にのめり込まれるのではなく、反対に毒麦を善で包みなさい。

僕たちが主人に言った。毒麦が入って来ている。主人は言います。敵の仕業だ。 敵とは:平安、安心を壊すものです。静けさ、おおらかさ、ゆったりとした平和を壊す。仲のよい喜び、造る喜びを壊す。つながりを壊す、愛が育つのを壊すのです。生き生きとした命がない。死にむかう力です。
毒麦は善い麦の内に混ざって、人が食べるとめまいや吐き気を起こすそうです。

刈り入れの時、毒麦が集められ、束にされ、火に投げ込まれる。神様は最後の日まで、毒麦が毒を抜く努力を待ってくださる。わたしたちが自分の心と体の内にある毒麦を捨てることが出来るよう、神様は待ってくださっているのです。今から、今日から、天の国に向かって歩みたいと思うのです。

イエスはたとえを用いて語られます。たとえを用いないでは語られないというのです。たとえはその人の前に、聞いている一人一人の前に置かれた箱のようなものだと思います。興味があったら、もっと知りたかったら開けて見たらいい。関心がなかったら、そのままおいてゆけばいい。

天の国は新しい世界です。隣人のために働きたくて仕方がない人の世界です。その中に入らなければ天の国は分からない。天の国はぶどう園ですと話したことがありました。この世で苦しんでいる家族ために、助けに出会えない隣人のため、天の国でもっともっと祈ります。力を貸します。働けてうれしい。人のためになって嬉しい。天の国はそんな世界です。

イエスはまた、天の国をたとえで語ります。天の国はからし種に似ている。からし種は本当に小さい。小さいから多めに蒔こうと思って知まう。小さいものでも、弱いものでも、丁寧に大地に蒔きなさい。日常生活の中で、小さい、何ともないような事に、不思議な出会いがあると言われているように思います。その出会いから出発して、出来事を大切にして行くと、違った世界が見えるのではないかと思います。本当に大昔の事ですが、使った切手を集めて送ると、注射一本の代金になるのだよ…ネパールの人たちへの援助だということを聞いた事があります。また、わたしたちは毎日、電気を使っている、水を使っている。無意識に使っている。発電に原子力を使う、ダムのために村が沈む。日常生活の中で小さい何とも思わないような出来事に出会う。種を蒔く。蒔くのはわたしです、あなたです。  畑に種が蒔かれ、光と水によって成長する。そのからし種がびっくりするほど成長し、どの野菜よりも大きくなる。

天の国はパン種に似ている。小麦粉にパン種を混ぜ、こねると全体が膨れる。

わたしたちのこの世に天の国は来ている。生活の場に天の国は来ている。天の国を前にしてあなたは何ですか。日常生活に起きている小さな、様々な出来事に出会いがある。その中に入って行きますか。



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