「聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ」(B年)説教
2015年4月2日・加藤 英雄師


 

  モーセは言います。今、エジプトから出発の時。力をつけて出発する。神の国への出発です。神の国で生きることの喜びを味わうのです。食事を用意する。過越しの食事。家族ごとに傷のない、雄の小羊を一匹用意しなければならない。

  羊はイスラエルの人々にとって親しい動物であった。羊はその家の財産であり、羊は祭儀の大きな生け贄となる。羊の角は宗教祭儀の楽器として使われ、角笛としても使われる。羊は従順であり、忍耐強い。

出発の夜、羊を屠って食べなさい。そして、その家の門の柱と鴨居に羊の血をとって塗りなさい。主は滅ぼすものを送る。あなたの家の門に塗った血はあなたたちの「しるし」となる。その家を滅ぼすものは過ぎ越して行く。あなた方は命を得る。そのいのちは神の国への出発の命。羊のように、神様に従順で、忍耐強く、祈りを忘れず、命を喜ぶ国に向かって歩みなさい。

イエスは今年も過越しを祝う。イエスはこの過越しは新しい過越しだと知ったのです。この世はエジプトになっている。この世から脱出する。イエスが人々をこの世から出発させる時だと悟ったのです。

  イエスが導かれる過越しの時、出発の準備が求められている。弟子たちに残しておきたいものは何か。愛することです。愛し合いなさい。互いに愛し合いなさい。愛を行いで示しなさい。
イエスは食事の席についている弟子たち一人一人の眼を見つめた。一人一人の眼を見つめ抜いた。弟子たち一人一人の心にイエスが入って行くのです。
  そして、食事の席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手拭いをとって、腰にまとわれたのです。そして、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い始めたのです。弟子たちはあっけにとられて、また、突然のことに緊張し、足を洗ってもらっている。
足を洗う。奴隷が主人の足を洗うのです。ペトロは言います。主よ、わたしの足を洗ってくださるのですか。それは奴隷の仕事です。そんなことはしないでください。
わたしはあなたの奴隷となる。あなたはわたしの思いを受け取ってくれないのか。それなら、わたしとあなたは何のかかわりがないことになる。あなたはわたしのこの行いが分からないだろう。あなた方はわたしを先生とか主と呼ぶ。先生であり、主であるわたしがあなたがたの奴隷となってあなた方のために働いた。わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい。良識を捨てて相手の奴隷となりなさい。
相手のために働く、相手が生きるため、平安を得るため、求めていることを与える。良識を捨てて働きなさい。その人の奴隷のようになりなさい。
出て歩きなさい。多くの人が助けを求めている。その人が隣人です。隣人と出会う。隣人を友としなさい。友のために働く。命をかけて働く、それが愛です。

新しい過越しの時。イエスは言われました。わたしは羊の門である。(ヨハネ10・7) イエスは弟子たちに愛を語られた。
そして、自ら羊となって、羊の門となって、命への道を導かれるのです。
イエスは模範を示されたのです。


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