「聖金曜日・主の受難」(B年)説教
2015年4月3日・加藤 英雄師


 

  わたしたちは今、生きている。このいのちは神様から注がれがいのち。何がこの大切ないのちを悲しいもの、苦しいものとするのですか。それは、自分の命は自分を生かす力だと思っているからではないでしょうか。自分の力によって生きる。自分のために生きる。自分の欲求によって生きるからではないでしょうか。いのちは喜びです。仲間と生きる喜びです。生き生きと生きる。生き生きと生きるいのちは何にも増して大きな喜びです。
イエスは言われました。生きるいのちを喜びとする、それは隣人を愛することです。隣人と共に生きる。仲間と一緒に生きる。隣人を愛する:隣人のために働くことです。喜ぶために苦労して働くのですか。しかし、隣人が喜ぶために働く、働いて、人が喜ぶ。これほど大きな愛はないのです。

隣人とは助けを求めている人です。働くことが出来ない。平安、安心がない。生きられない。まわりにはそのような人はいません。出て行きなさい。自分の家に留まっているだけでは見えない。出て行き、見つめなさい。食べられない人。体が不自由な人がたくさんいる。隣人とする。その人が自分の隣にいる人となるのです。隣人を友としなさい。隣人のために働く、それが愛。一緒に生きる。それが愛。それ以上に思い巡らします。わたしたちは今、愛され生きている。神様に、人に愛されて生きている。

生き生きと生きる、そのための働く、それも自分のために働くのではなく他人のために働く、それはなぜですか。それがわたしたちの生活となるのですか。愛の生活、よく分かりません。

イエス様は過越しの食事で言われました。「はっきり言っておく。あなた方のうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」 弟子たちは驚いた。わたしたちはみんな一緒に生活している。主であるイエス様を裏切る者がいるなんて考えられない。思いあたる者などいない。もしかすると自分が先生の思いと違う裏切り者なのか。お互いに顔を見合わせる。イエスの話が、時々全く分からない。先生のなさることが分からない。説明してほしいと願ってしまう。何度も、まだ分からないのかといわれている。しかし、イエス様を離れたくない。イエス様について行きたい。
イエス様は言われます。「友のために自分のいのちを捨てる事、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15・13) 愛の道を歩みなさい。人の為に働く以上に、自分のいのちを献げる。

ペトロはイエスの一番弟子だと思っている。いつも、イエスと一緒に歩きます。イエスの為なら、命も惜しくないと強く思っている。イエスを命をかけて愛していると思っている。 過越しの食事の席で、イエスが言われました。「わたしの行くところに、あなたは今ついて来ることは出来ない。」ペトロは言います。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたの為なら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにいのちを捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないというだろう。」(ヨハネ13・36~)

愛は隣人のために、友のために命を捨てる。そんなことが出来るのでしょうか。
お母さんが買い物に行きます。子供と一緒にスーパーマーケットに行きます。そのスーパーマーケットは駅のそばにあります。お母さんは夕食の買い物で忙しい。子供に目を離してしまう。子供がいなくなった。どこに行ったのかと探す。スーパーマーケットの中にはいない。外に出ると子供が線路に入ろうとしている。遮断機は下りている。電車が来ている。あっ、危ない。お母さんは子供の名を呼ぶ。大声で呼ぶ。電車が近づいて来る。お母さんは子供のところへ駆けて行き、子供を放り投げる。子供は投げ出され、ちょっとした怪我で済んだ。お母さんは電車にひかれて死んでしまった。 子供は知ります。お母さんはお前のためにいのちを投げ出したんだよ。お前が大好きだから、自分のいのちを捨ててもお前に生きてほしと思ったんだよ。お母さん、ありがとうの心を忘れてはいけない。  愛のためにいのちを捨てる。そんな出来事がありました。

お父さんは単身赴任をしている。忙しく働いている。子供が病気で長く入院している。つい、子供のことは忘れている。子供はお父さんに会いたがっている。冬、子供の状態が急に悪くなってきた。お父さん来てくださいと呼ぶ。何度も呼ぶ。急ぎの仕事が入り、なかなか来られない。お父さんはやっと来られた。急いで来た。息子に会えた。息子はお父さん、お父さんといって涙を流す。しかし、息子はじきに、まぶたを閉じた。医者はご臨終ですと告げる。お父さんは息子を抱きしめる。お父さんだよ、お父さんだよ。何もしてあげられなかった。ごめんな。寒いかい。温めてあげるよ。お父さんは上着を脱いで、息子にかける。看護婦さんたちは耐えられなくなって病室から出て行く。お父さんは息子が死んだのを知っている。どうしようもない事を知っている。何も出来ない事を知っている。 お父さんは、今いのちの尊さを知ったのです。息子の大切さを知ったのです。
生きる。命の大切さを喜び生きる。

イエスは自分のいのちを捨てても、人々にいのちの大切さ、いのちの尊さを知ってもらいたいのです。このいのちによって人が「喜ぶいのち」を得る事が出来ますように。わたしたちの罪の代金が、悪の代金がイエス様の命なのです。

わたしたちの命は隣人が、友が生きるための道具なのです。自分のいのちを喜ぶことが出来ないのですか。いや、そうではない。わたしたちが友のために働いて、友が生きるいのちを喜んだ時、本当の喜びが生まれるのです。神様からの喜びを味わうことが出来るのです。

今日、イエスの苦しみを心から思い、感じ取ります。人の自分だけを思う心がイエスに苦しみを与えた。イエスのいのちを奪った。
イエスを思い巡らしながら、わたしたちが神様から与えられたいのちに生きているかを思いたいと思います。


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