「年間第14主日」(B年)説教
2015年7月5日・加藤 英雄師


 

  第一朗読エゼキエル書を読みます。 霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。
わたしたちは土の器。神様の霊で満たされたい。あなたの前にあるその出来事を、その人を神様の目で見なさい。神様の耳で聞きなさい。神様の口で語りなさい。霊によって、今、立ちなさい。自分の足で立ち、歩き始めなさい。 見る、聴く、語る、この中で一番大切なのは聴くことです。出かけて行く。人と出会う。その人たちの心を聞きなさい。その時、その人とつながる。 神に反逆する者がいる。悪を楽しむ者がいる。彼らは強情である。恥知らずである。その者たちと出会う。その者たちの心を聞きなさい。 人が何を求めていますか。聞いてくれることではないですか。自分の中にある不満、うっぷんを聞いてくれる。悪を行う人の心を見る、聴く。いや、悪を行うことになってしまったその人の心を聞くのです。
イエスは弟子たちと一緒に故郷に帰られました。故郷の仲間たちと神様を語ろう。故郷の仲間たちが神様の憐みを知り、神様の温かさをを知る。神様はおおらかに導いてくださっている事を知る。神様を喜ぶ。 安息日、イエスは会堂で聖書を読む。神様を語る。多くの人々はそれを聞いて驚いた。神様の心がイエスの口から流れてくる。神様の温かさが心に響いてくる。 故郷の人々はふと思ったのです。彼はイエスではないか。このような事をどこで得たのだろう。神様が語っている。神様の業を行うというではないか。イエスは大工だった、イエスの兄弟姉妹は我々と一緒に住んでいる。  このように人々はイエスに躓いた。
人々は言うのです。我々はイエスを知らないわけはない。子どものころのイエスをよく知っている。近所の仲間と遊んでいた。父さんは大工。イエスも父さんの大工の仕事を手伝っていた。人々は神様を語るイエスを見ていたのでした。あれほどのことを語るイエスは立派になったね。神様のみ心が、温かさが皆を包もうとしていたのではないですか。人々はイエスを通して語られた神様を知ろうとしなかった。あいつがあんなに偉いはずがない。 預言者が、預言が殺されている。

人々は強い。 信仰に、見える強さを求めてはいけない。パウロ、あなたは強くなってはいけない。思い上がってはいけない。パウロにとげが与えられた。とげがあるのはいやだ。苦しい。パウロは、このとげを取り除いてくれと三度主に願った。主は言われた。「わたしの恵みはあなたに十分である。」あぁ、そうか、主のみことばは-とげを恵みとして考えなさい-と言われているのではないでしょうか。 わたしたちは、神に忠実な人に神様からの十分な平安、十分な力が与えられている、弱さがないと思っています。神に忠実な者には苦しみがないのですか。不幸な出来事が起こらないのですか。事故が起こらないのですか。 そうではない。神様に忠実な人、深い信仰の道を歩んでいる人たちにはより激しい誘惑があるのです。苦しみを与える、不幸な出来事が起きる、事故が起きる。これらのことがわたしに襲いかかり、行き詰まりの状態になっていても、神様のみ心を忘れない。その出来事をすべて受け入れなさい。自分の弱さを知りなさい。イエス様、弱い私に力を与えてください。わたしは弱さを誇りとします。わたしは弱い時こそ強いからです。
わたしたちはイエスと出会っています。イエスのみことばを聞いています。イエスのみことばが心に響いていますか。イエスの思いのうちに行うことが出来ない。イエスに従順になれない。
あなたのとげは何ですか。


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