「年間第19主日」(B年)説教
2015年8月9日・加藤 英雄師


 

  王妃イゼベルが自分を殺そうとしている。エリヤは逃げます。荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けます。エリヤは主に願い、祈ります。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」エリヤはえにしだの木の下で眠ってしまった。御使いが彼に触れた。「起きて食べよ。」枕元にパンと水が置いてあった。食べた、飲んだ。また寝た。再び、御使いが来て、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐えがたいからだ」
エリヤは40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

この世は荒れ野です。わたしたちは荒れ野を歩いています。目の前に神の山があります。この山に登る。隣人と共に、命を味わいながら登ります。狭い道、苦しい道。正義、平安という荷物を背負いながら歩きます。主が食べ物、飲み物を下さる。

荒れ野でイスラエルは40年の道を歩いた。荒れ野で食べ物がなくなった。水がなくなった。 
  40年の荒れ野の生活の中でイスラエルはパンと水は神様から与えられていることを身をもって経験している。十分に知っている。
イエスは言われる。モーセのパン、マンナを食べたものはみんな死んでしまったではないか。あなたたちはモーセによって、食べ物を与えてくださる神の力を見たのである。わたしたちを見守ってくださっている神様のみ心を見たのである。

エリヤは主によってパン、水を得ました。主が守られている。苦しくても主のために歩くのです。

イエスは言われます。わたしの言葉を心の耳で聞きなさい。食べる物、飲む物は神様によって与えられている、わたしたちは神様によって生きている。神様の愛によって生きている。
それ以上の恵みが与えられているのです。神様は今、わたしたちにまことのパン、「いのち」のパンを与えてくださる。いのちのパンを食べて、神様のいのちのうちに入りなさい。

神様のいのちのうちに入らなければいのちが見えない。神様のいのちに生きることが出来ない。わたしが天からのまことのパンである。わたしを食べなさい。
わたしの語った言葉を食べるのではなく、わたしの姿を黙想するのではなく、わたしに深く深く祈るのではなく、わたしを食べるのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むのです。

イエスの姿が動いておられる。愛が動くのです。イエスは毎日人と出会われた。人に語られた。あなたの心の扉を開きなさい。イエスの言葉が光となって、その人の心に入ってくる。一緒に歩こう。

隣人のために命をかける、すべてを与える心を持つのです。イエスは言われます。わたしの痛みを知りなさい。わたしの忍耐、慈しみを知りなさい。それが愛です。あなたが忍耐しなければ、あなたが痛まなければ、あなたが汗をかかなければ、あなたの体が動かなければ、わたしはあなたの中にいない。あなたはわたしの中にいない。
わたしを食べるとはあなたの中にわたしがいることです。あなたの心の中にいる。あなたの体の中にいる。  わたしを食べたものはいのちを知る。いのちに入る。永遠に生きる。

わたしたちはイエスの十字架の姿を見ました。十字架につけたわたしたちの思いを知りました。愛とは与えること。イエスは十字架の苦しみ、十字架の死で自らのすべてをわたしたちに与えられたのです。自分のいのちを愛する以上にわたしたちを愛されたのです。(ご自分を代金としてわたしたちを買われたのです。)

イエスを食べます。ご聖体をいただきます。イエスの道を歩きます。


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