「年間第24主日」(B年)説教
2015年9月13日・加藤 英雄師


 

今日、わたしたちは信仰について考えたいと思います。
わたしたちは洗礼を受けている。教会に通っている。イエスを知っている。わたしたちは信仰のうちにいると思っています。ヤコブは言います。あなたは本当の信仰を行っていますか。自分の思いのうちにある信仰ではないですか。イエスは問われます。あなたはわたしの心の内にいますか。
「主の僕の歌」を味わいます。 そして、イエスの言葉を受け取ります。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている。」 この二つは同じことを語っているように思います。信仰について語っているのです。

  信仰とは何ですか。あなたは神様を見つめていますかとイエスが問うているのです。 第一朗読、イザヤの預言書、「主の僕の歌」が読みました。僕とは主人の思う通りに働く者です。だから主の思いを一番知らなくてはなりません。父はイエスに言われたのです。わたしが与える杯を飲みなさい。そして、主の僕の歌にイエスの受難の姿を思い起こします。苦しみを背負ったイエスの姿がある。イエスは鞭打たれ、唾を吐きかけられ、殴られ、十字架を背負ってわたしたちの前を歩かれた。主の僕の歌はわたしたちに向かって書かれたものではないでしょうか。わたしが父の僕となって、父の御心の内に歩いたように、あなたはわたしが歩いたこの道を歩いていますかと問われているように思うのです。
信仰とはつながりです。
  ①神様と人のつながり。②自然と人のつながり。③人と人のつながりです。
神様と人のつながり。神様から命を注がれて人は生きるものとなる。神様から愛されてこの世に生まれた。神様に愛されているからこの世に生きている。人が生きるに必要なものはすべて与えられている。
自然とつながっている。神様からすべて与えられている。神様にどのように感謝したらいいのですか。感謝の祈りをささげなさい。そして、あなたを支えるもの自然のために働きなさい。自然を自分の欲求のために壊してはいけない。いつか鮪の話をしました。海老の話をしました。鮪がいない。海老がいない。ちょっとした贅沢が鮪や海老を滅ぼしてしまっている。
人と人のつながり。人は人の中で人を知るのです。お父さん、お母さんが神様を語る。子供は神様を知る。人は人に支えられて人は生きている。喜びも悲しみも人から来る。煩わしさや友情も人から来る。
信仰はつながり、愛です。相手のために働くことです。信仰は神様を求めることではありません。霊性を深めることではありません。聖書を深く読み、深い祈りのうちに神様を見つめることではありません。支えられていることを知り、支える者となるのです。感謝のうちに支えるのです。
イエスが聞きます。わたしはあなたにとって何者ですか。ペトロが答える。あなたは神の子キリスト。あなたはわたしたちを救う方。あなたはイスラエルの王。
人の子は、わたしは必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、三日目に復活することになっている。
ペトロはイエスに言います。先生、何ということをおっしゃるのですか。神様の力を持った方がそんなことになる。そんなことは絶対あり得ません。わたしたちの希望を消し去らないでください。
わたしたちは神様の温かさ、恵みのうちに歩いているのです。

サタン、引き下がれ。あなたはこの世のことを思っている。この世の栄光を求めている。この世の人の命の救いを求めている。ペトロ、この世の命に死になさい。この世から去りなさい。地上のものの中に入ってはいけない。地上のものから離れなさい。ちょっとパウロの言葉を思い起しました。貪欲は偶像礼拝。(コロサイ3・5-)貪欲はこの世の栄光を求める。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。

わたしに従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音ために命を失う者は、それを救うのである。
主の僕の歌を思い起こします。
悪を受け取ります。悪を飲み込みます。悪を超えます。その時、つながることが出来ます。愛が生まれます。神様は苦しみを与えられる。それが愛の出発ではないでしょうか。
信仰はつながり、愛です。


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