「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」
今の社会には平安がない。悪い事件があまりりにも多く起こっている。この社会に不満だ。どうしようもなく不満だ。今、イエス様はきっと言われます。群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている。あなたの思う道を歩きなさい。わたしたちは神様を知っています。イエス様と出会った。今を見つめ、自分を見つめ、主を見つめたいのです。
祭司ザカリアの子ヨハネはわたしたちを見ています。そして、荒れ野に行き、ヨルダン川沿いで語り述べ伝え始めました。 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
わたしたちの世界には豊かな土地があり、荒れ野があります。豊かな土地は木々が茂り、花が咲き、鳥が飛び、蝶々が舞います。しかし、荒れ野には水が流れていない。地が砂漠になっている。木がない、草がない、花がない。生きるものが生まれない。育たない。荒れ野は生きるものがないところです。
ヨハネは命のない荒れ野で語るのです。飼い主のいない羊のような人々の心が荒れ野ではないでしょうか。人々の心が死んでいる。生き生きと生きる命を求めない。ヨハネは人々の心に、わたしたちの心に語っているのです。
ヨハネという名は「主はいつくしみ深い」という意味だそうです。荒れ野で「いつくしみの実」を結びなさい、主の思いの実を結びなさい、そんな厳しい役割を心に刻んだのでしょうか。
神様の言葉がヨハネを通して荒れ野に降りました。ヨハネから水が流れ出ている。ヨハネの言葉は生きる命の水。荒れ野の心に神様の温かい水が流れ込む。生きなさい。あなたたちはイスラエルの民ではないですか。イスラエルの今は、わたしたちの今は、薄暗い社会。あなたは道を踏み外していませんか。神様を求めなさい。神様への道を歩みなさい。
ヨハネのことを考えながら、第一朗読・バルクの言葉を思い起こします。
「エルサレムよ、立ち上がれ。」 エルサレム:神様を求める者たち、神様のうちに歩む者たち、神様のみ心を行う者たちです。「エルサレムよ、立ち上がれ。」あなたたちは本当にエルサレムの信仰のうちにいるのですか。信仰のうちに戻りなさい。あなたは社会に埋没していませんか。欲求に振り回されていませんか。静かな時を持っていますか。
わたしたちがどんなに悪くても、父さんがわたしたちを忘れないように、神様はわたしたちを決して忘れません。もう一度、神様と出会い、神様と向き合いなさい。
ヨハネは言います。罪の赦しを得るために悔い改めの洗礼を受けなさい。悔い改めの洗礼は神様の場です。洗礼によって罪の赦しを得るのです。悔い改めによって罪の赦しを得るのです。
悔い改め:あなたの世界を変えなさい。今、いるところから脱出するのです。悪いことをしたから謝る、価値観が違うからそのように考えを変える。それは悔い改めではありません。今から離れる、今から脱出するのです。
罪の赦しを得るとは神様とのつながりがあることです。放蕩息子の弟が父さんのところへ帰る、命の尊さを知ることです。
洗礼は水に沈むこと。命の水があなたを包みます。今までのあなたは水によって死にます。同時に、水によって新しい命が注がれ、新しい命に生きるのです。
洗礼が回心のしるしとなるのです。
回心のしるしが洗礼です。
神様を見つめ、静かな時を大切に過ごす。 神様を求めます。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」