「聖家族」(c年)説教
2015年12月27日・加藤 英雄師


 

  今日、わたしたちは聖家族を祝います。
  家族は温かい、和やかな、しっかりした、一番大切な共同体です。家族が家庭を造っている。 家族の中で、家庭の中で子供は育ってゆきます。家庭の中で父と母のつながりがありますが、子供にとっての家庭、父さん、母さんとのつながりを見たいと思います。
  家庭は子供たちを大切にします。父、母は子供と一緒に生活をする。子供の目はいつも父さん、母さんに向いています。父さん、母さんは子供にいろいろなことを言葉で教えようとします。子供は言葉で聞くよりも父さん、母さんの心を感じ取っています。 教えようとしている言葉を聞いているのではなく、教えたい思いを感じ取っているのです。
家庭にいろいろな出来事が起こります。出来事は思いの現れです。一つの思いだけではなく、それに加えられたいろいろな思いがその出来事にあるのです。
その出来事は心である言葉です。いろいろな言葉がその出来事から聞こえてきます。

第一朗読・サムエル記でエルカナとハンナの家庭の出来事が語られます。
ハンナは子供が出来なかった。主に願った。深く、強く、熱心に願った。ついにハンナは身ごもった。夫エルカナは神様からの驚くほど大きな恵みに感謝して、満願の献げものを持ってシロの主の家に行こうとしたが、ハンナは行こうとしなかった。この子が乳離れしてから、この子と一緒に主の家に行きます。

この出来事には、ハンナの強い信仰が描かれていると思います。神様に子がほしいと強く求めました。主よ、男の子をお授けください。その子の一生を主にお献げします。今、男の子が授かった。
エルカナは言った。シロの主の家に行って、主の大きな恵みに感謝しよう。ハンナは言います。この子が乳離れするまで待ってください。乳飲み子の死が多かったのです。わたしが育て守ります。

サムエルの乳離れをする時が来た。ハンナはサムエルを連れてシロの主の家、祭司エリのところへ行った。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしはこの子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた子です。

サムエルが3歳の時、両親の家を離れて祭司と共に住むのです。母の自分を思う心を十分に知った。神様への愛を知った。

お母さんは一番大切なものを主にゆだねた。お母さんは心を主に献げたのです。お母さんの強い信仰を喜びたいと思います。

聖家族の家庭を思いめぐらします。
ヨセフ、マリアは毎年過越祭をエルサレムで祝います。過越祭はイスラエルの出発の出来事、大切な祭りをエルサレムで祝うのです。ヨセフとマリアの信仰の心がイエスに伝わっています。信仰は神様に向かって歩むことです。自分たちの住まいから、旅の支度をして、エルサレムの神殿に向う。神様と出会うために出発するのです。

祭りが終わって帰路についた時、イエスがいないことが分かった。一日分の道のりを行ってしまっていた。イエスは今まで両親の心を煩わしたことがない。イエスがそばにいない時はいつも、仲間のところにいる。子供たちを集めて一緒に遊んでいる。心配することはなかった。しかし、まる一日姿を見せない。捜す。見当たらない。 両親のイエスへの思いを見ます。信頼のうちにつながっている。温かいつながりが見えます。

両親はエルサレムの神殿の境内で学者と話し合っているイエスを見つけた。あぁ、見つかった。
マリアは安堵の心と一緒にイエスを叱ります。
「あなたのことを心配して、お父さんもわたしも捜したのですよ。」
イエスは言う。「わたしは今、父の家にいるのです。心配なさらないでください。」
両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。

イエスは父の家で学者たちと話をしていた。安心があった。喜びがあったと思います。
そして、母マリアの言葉を聞いて、静かに答えたのです。

イエスはこのとき12歳でした。12歳までは子供です。イエスは父の家にいる、当然のことをしているのですと答えたのでした。 マリアはえーっと思った。
ヨセフとマリアは父の家とは自分たちのところではないかと思ったのでした。

マリアはイエスを見つめた。この出来事を心に納めたのです。
イエスは父母の思いを知り、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになったのです。

家庭に静けさがあります。微笑みがあります。深いつながりがあります。言葉ではないつながり。温かさのつながりがあります。その中で自由です。叱っても、叱られても自由です。
今日、エルカナ、ハンナの家族、そして、聖家族を見つめました。
神様のみ心とつながっている。父、母がつながっている。子供とつながっている。
その喜びを大切にしてゆきたいと思います。


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