イエスはヨハネから洗礼を受けた。人々は洗礼を受けたイエスを見た。イエスは人々の中で、人々と共に神様への道を歩む者となった。
翌日のことである。ヨハネの弟子たちがイエスに従ってついて行く、イエスはその者たちに尋ねる。何を求めているのか。弟子たちは答える。あなたはどこに泊まっているのですか。イエスは言う。来なさい。そうすれば分かる。弟子たちはイエスのもとに泊まった。
その翌日、イエスはフィリポに出会った。わたしに従いなさい。フィリポは友人ナタナエルに会い、イエスの姿を告げた。フィリポ、ナタナエルはイエスに従った。
三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があった。カナはナザレの北約13kmのところにある町です。
イエスの母が宴の料理の責任者を任されていた。イエスの家と何かかかわりがあるのでしょうか。
イエスと弟子たちも招かれていた。婚礼のお祝いが始まった。イエスの母がイエスのところに来て、「ぶどう酒がなくなりました」と告げた。母の言葉を聞いてイエスは母に言うのです。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
母はイエスの言葉が耳に入っていないのか、召使たちに、「この人が何か言いつけたら、その通りにしてください」と言った。
はじめ、わたしはこのやりとりを聞いてよい感じはしなかった。この母と子、マリアとイエスのつながりは他人のようではないか。わたしは母と子のこの出来事を人の目で見てしまったのです。
福音記者ヨハネは、母マリアはイエスの存在の神秘を知っている、また、イエスは神様の心のうちにいることを知りながら、このように書かれたのではないかと思うのです。母と子の美しさを記しているように思うのです。
婚礼は二人が結ばれ、支え合って歩む、愛のうちに歩む家庭を造ってゆく姿です。
人の喜び。婚礼の二人の喜び、今まで過ごした二人の家族の喜び、二人の町の喜びです。
そして、神様の喜びです。
マラキ書はこのように記しているように思います。(マラキ2・14)
婚姻は、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられた。 あなたたちはわたしの前で共に歩むことを約束した。わたしはその証人ですよ、と主がおっしゃっているのです。
婚姻は神様の喜び。 第一朗読・イザヤ書も言います。
あなたが神のうちに入れば、若者がおとめをめとるように、あなたの神はあなたを喜びとする。
母マリアは婚礼のうちに働く。ぶどう酒がなくなってきた。金持ちの婚礼のように一週間も続く宴会ではない。皆で支え合いながら宴を行っていると考えたいのです。
母マリアと息子イエスの会話をこのように思うのです。
息子イエスよ、ぶどう酒がなくなった。この婚礼に神様からの祝福であるぶどう酒をたくさん注いでおくれ。神様のみ心を持つあなたがこの宴を祝福する、神様と共にいてくださる宴にしてほしい。
婦人よ、ぶどう酒の足りないことはわたしの役割ではありません。
そうです。でも、今、婚礼に必要なのは婚礼で結ばれた二人へのあなたの愛ではありませんか。
この宴を祝福してください。喜びの宴になりますように。
わたしの時はまだ来ていません。
この婦人の小さい、でも、大切な願いを聞き入れてください。
この婦人はイエスの心持を知っていた。慰め、悲しみを包み込み、喜びを与える心。
祝福の心をもって、必ずぶどう酒を与えてくださる。
弟子たちはそこにいて、母マリアとイエスを見た。イエスの業を知った。イエスを喜んだ。イエスを信じた。
カナにぶどう酒が注がれた。イエス最初の奇跡です。