「キリストを信じ、キリストの愛のためにいのちをささげた二十六聖人は、キリストと共に終わりなく喜び歌う。」
キリストを信じるとは、イエス・キリストのうちに神様を見ることです。イエス・キリストによって命が与えられ、イエス・キリストによって生きている。イエスのうちに本当の喜びがあり、イエスのうちに天の国がある。 イエスを愛するとは、人のいのちの尊さを知り、人の命の尊さのために働くことです。
イエス・キリストのために自分のいのちをささげた日本二十六聖人は、キリストのうちにいます。キリストと共に終わりなく、いのちを喜び歌います。神に感謝。
[ガラテヤ2・19-20]
神様から与えられた律法を見ます。律法は神様のみ心ですか? イエスは律法を大切にしない、律法を破っているといって、律法学者、ファリサイ派の人々から非難されていました。イエスの指導はよくない。イエスの神様はわたしたちの神様ではない。イエスはいないほうがよい。イエスは渡されました。ローマ皇帝に反逆するものとして、十字架の刑に処せられたのです。イエスに神様のみ心を見ます。イエスの心に神様の憐み、神様の愛を見ます。イエスは神様を語ります。神様の温かさ、平安、慰め、励ましを語ります。律法は神様の、今も強く働かれる憐れみ。神様のみ心は愛にあふれ働いている、憐みにあふれ働いている。律法は憐みではないですか。今、注がれている憐みが神様のみ心、これが律法です。文字による律法がイエスを十字架にかけた。
わたしたちは宣言します。イエスこそ神様のみ心。イエスこそ律法そのもの。イエスの姿が律法です。真の律法です。 律法に従う。パウロは言います。神様のみ心を思う時、生きているのはわたしではありません。自分を捨てている、自分がない。キリストがわたしのうちに生きている。キリストのうちに生きる、これこそ律法に従うことです。
[マタイ28・16-20]
11人の弟子たちがイエスの指示されていたガリラヤの山に登った。11人は復活されたイエスに出会った。イエスは言われる。この世の命を超える命を見ている。あなた方は出かけて行き、すべての人をわたしの弟子にしなさい。
日本二十六聖人殉教者は京都から長崎までの道のりを歩かれました。800㎞、33日の旅です。神の国への厳しい道です。耳を切り取られ、裸足で、食べ物も少ししか与えられず、冬の寒さの中を歩きました。
この国にキリストを、キリスト教をもたらすためにいのちをささげます。
つかの間のいのちから永遠のいのちへの道を歩みます。
疲れ切っていた26人は海の見える高台に十字架を見ました。十字架にそれぞれの中目が書かれています。26人は皆、十字架に向かって走り寄りました。十字架を抱きました。
1597年2月5日長崎・西坂の丘で、26人は十字架で処刑されました。