「四旬節第1主日)」(C年)説教
2016年2月14日・加藤 英雄師


 

  四旬節を迎えました。今日は四旬節第一主日です。
第1朗読・申命記、第2朗読ローマ書、そして福音を読んで、信仰について思いめぐらしなさいと強く勧められていると思うのです。
 イスラエルの信仰は与えられる恵みの多さではなく、神様に導かれ善いものに出会う、自然が見える、人が見える、神様が見える、そのつながりを感謝することではないでしょうか。そして、信仰とは、皆が一緒に生き生きと生きることです。力がある者、弱い者、体が不自由な者、皆が一緒に生きる。皆が神様の命を注がれたものとして、同じ命の重さをもって、一緒に生きることではないでしょうか。

わたしたちは善い者になりたい。しかし、わたしたちの神様は言われます。自分が善い者になるために努力するのではない。善い者になるために、例えば、祈り込んで霊的に深い人になったり、聖書を深く読んだりするのではない。隣人に手助けする者になるのです。手助けするために働く。その時、善い者にならざるを得ないのです。自分のために善い者になるのではない、隣人のために善い者になってゆくのです。

わたしたちは自分のために生きるのではない。皆と一緒に生きなさい。愛しなさい。互いに愛し合いなさい。愛するとは与えることですね。自分が、毎日、与えられながら生きてきたことを知って、
今、与えながら生きて行く道を歩むのではないでしょうか。
信仰は与えること、キリスト教の信仰は損をする道です。

イエスはヨルダン川でヨハネより洗礼を受けました。人々の中で、人々と一緒に神様への道を歩む者となったのです。聖霊はイエスを荒れ野に導かれました。荒れ野は命のない場です。生きているものがない、心なごませる光がない、楽しみがない、笑い声がないところです。神様がイエスを荒れ野に導かれた。荒れ野を心と体で受け止めなさい。神様は苦労を知らない。神様は人の悲しみを知らない。飢えを、渇きを知らない。イエスは40日間、荒れ野に閉じ込められます。人間の出会う悪を知るのです。

イエスは悪魔の誘惑に出会います。誘惑という言葉は試練という意味を持つそうです。荒れ野の40日間の悪魔の誘惑は、イエスに与えられた試練の場、そして、イエスの信仰告白の場、いや、それ以上にわたしたちにとって信仰告白の場となったのではないかと思います。

荒れ野でイエスは悪魔から誘惑を受けられました。
イエスは荒れ野にいる。断食の期間が終わった。空腹である。
悪魔はイエスに言う。イエスよ、あなたは神か人間か。あなたが神の子なら、この石をパンにしたらどうだ。腹がすいているだろう。イエスは答えられました。人は体を造るパンだけで生きるものではない。パンを与えてくださる神様の心によって生きているのです。断食によって食べ物の大切さを知りました。神様はわたしたちに食べ物を与えてくださっている。
今、断食を終わったこの時、わたしは神様の心を味わう時なのです。

悪魔はイエスを高く引き上げられた。イエスに全世界のすべての国々が見えた。悪魔の力によってイエスはすべてのものが見えるところにいる。悪魔は言う。もし、わたしを拝むなら、全世界のすべてのものをあなたにあげよう。全世界の一切の権力と国々のすべての繁栄をあなたにあげよう。それはわたしに任されている。あなたはわたしによって全世界の支配者になることが出来る。わたしを拝みなさい。 イエスは悪魔を見つめ言われた。「すべてのものは神様のもの。神様はあなたの主ではないか。主を拝み、ただ主に仕えよ。」

悪魔は主の憐れみ、いつくしみ、命の尊さに対抗するものです。しかし、悪魔も神様のもとにあるのです。神様を選ぶ時、悪魔の力から解放されるのです。

悪魔はイエスを信仰の都エルサレムに連れて行きます。イエスを神殿の屋根の端に立たせて言います。 イエスよ、あなたが神の子ならここから飛び降りたらどうだ。神様が落ちるあなたを守る。天使たちがあなたを支える。聖書にそう書いてある。

悪魔はエルサレムに入ることが出来るのですね。神殿に入ることが出来る。神殿を足台としている。聖書の言葉をよく知っている。
イエスは言われます。「あなたの神である主を試してはならない。」

悪魔はイエスに自分を守る力を与える、豊かな繁栄を与えるといいます。すべてを支配する権力を与える。 イエスは答えられるのです。
支配とは任されているもののために働くことです。権力は支配するために道具です。
自然のために働く、隣人のために働く力です。

もう一度思い巡らします。
信仰は与えられる恵みの多さではなく、神に導かれ善いものに出会う。
神様とつながる。自然とつながる、人とつながることです。
神様とつながる時、自然とつながってゆく、隣人とつながってゆくのです。
つながるとは与える者となる事です。

四旬節、イエス様の道を一歩一歩、歩いてゆきたいと思います。


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