わたしたちは四旬節の道を歩いています。旬は10という意味ですから四旬節は40日の道。
聖書で使われる40という数は苦行の期間、試練の期間を示します。
すぐに思い出すのがモーセの出エジプト、40年の荒れ野の旅です。ある本によると、40年は一世代を意味するそうです。エジプトを脱出したイスラエルはその世代の人はイスラエルに入れない。苦難、試練のうちに荒れ野にとどまり、次の世代の者たちにイスラエルでの解放を委ねるのです。
また、ノアの箱舟の時、40日40夜、地上に雨が降り注いだ。洪水によって地上が拭われた。(創世記7・4)
神様がモーセをシナイ山に呼ばれ、モーセは40日40夜、断食した。(申命記9・9)
ヨナはアッシリアの都ニネべに行き主のみ言葉を告げます。あと40日すれば、ニネべは滅びる。
(ヨナ3・4)
イエスは洗礼を受け、聖霊によって荒れ野に導かれました。荒れ野で40日間断食されました。(マタイ4・1~)
四旬節の道を歩みなさい。わたしたちの前に門がある。その門を開くと狭い、石ころだらけで、いばらの木が、途絶えることなく生えている道がある。この道を歩きなさい。この道は神の国に通じている。
神様の思いは喜びです。一番の喜びは生きる喜び。誰でも、みんなが喜ぶ。
しかし、喜んでいない人たちがいる。その人たちは不満を持っている。今の生活は十分ではない。欲求が満たされていない。自分が不当に扱われている。
ある人たちは体が不自由。自分は何も出来ない。人から援助をもらって生きている。喜べない。
多くの人がつぶやいている-出来ない、力がない、苦労しながら生きている。
この世は不満だらけなのか。神様の思いのうちにない。
静かに神様を見つめなさい。自分を見つめなさい。
出来ない、力がない、お金がない、苦労し続けている。それでいいではないですか。
人は小さく、弱く造られたものです。自分は小さく、弱い。だから少しずつ大きくなってゆく、少しずつ強くなってゆく。それは自分の大きさを自慢するためではありません。強さを自慢するためではありません。自分を知る。自分の思いのうちに人が見えていない。人とつながって生きるためです。
今日読まれた創世記で、アブラハムは自分の理解を捨てました。主の言葉を信じました。
自分を捨てた時、神様からのすべての出来事が受け入れることが出来るのです。
わたしたちは神様と出会いました。イエスと出会った。イエスに神様のみ心を見た。おおらかさ、静けさ、力強さを感じた。そして、心に響く言葉を聞いた。
門を開いて、神様への道を歩きます。荷を背負い、細い、厳し道を歩きます。荷物はイエスの思いを伝える言葉、行いです。与える者になることです。
イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、祈るために山に登りました。祈りは神様と出会う時です。
神様の前に座る。静かな空間に入る。神様の心を聞く。
ペトロ、ヤコブ、ヨハネは神様の世界を見たのです。祈りのうちに、イエスの顔の様相が変わりました。服は真っ白になりました。
イエスを囲んでモーセ、エリヤがいる。語り合っている。エルサレムで遂げようとしておられる最期について語り合っている。エルサレムで遂げる最期をエクソダスと書かれているようです。エクソダスはエジプトからの脱出です。そうか、最後の晩餐は過ぎ越しの食事です。パウロは言います。わたしたちの本国は天にあります。 新しい出発です。イエスによる新しい出発です。
過ぎ越しの食事にイエスを食べる。イエスは宣言します。わたしの体を食べ、わたしの血を飲みなさい。イエスの死は神の国への出発のいけにえです。わたしたちのためのいけにえです。
イエスはモーセと語り合います。モーセの律法を語り合います。わたしの旅はモーセを超える旅です。モーセが人々に示した律法を超える。文字である律法を超える愛を示します。愛のうちに律法を見る。今こそ、神様のみ心、律法が行われるとイエスは語るのです。
エリヤと預言者を語り合います。預言者は神様のみ心のうちに、人々のだらしない生活をを𠮟りつけていた。祈りなさい、断食しなさい。悪と対峙しなさい。預言者は率先して愛を行うのではないですか。今こそ、まことの預言者が神様の示される愛を行いますとイエスは語るのです。
苦しい道を歩む人々は神様の愛に包まれている。ペトロ、ヤコブ、ヨハネはイエスを包んでいる神様の世界を見たのです。
四旬節。与えられている恵みに感謝し、隣人に与える者になる。
イエスの姿を見つめ、行う者となりますように。