「四旬節第3主日)」(C年)説教
2016年2月28日・加藤 英雄師


 

  モーセは神様に呼びかけられる。モーセ、あなたをエジプトの遣わし、イスラエルをエジプト人の手から救い出し、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地へ導き上る。あなたはわたしたちを導かれる神様、わたしたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です。
「その名は一体何か」と問われたら何と答えましょうか。

名を問われる。 名とは:知り合う時、名を知ります。名によって知り合うことになる。名がその人を示すのです。 力ある方の名によって願うと、願われた人はその名によって願いを聞き入れなければいけないような事が起きる。しかし、名を使う人と名を使われる人のつながりが深くなければ、名を使うことが出来ない。 わたしたちは神様の名を使って願い事をします。神様の名を使う人はそれだけ神様とのつながりが深いのですか、と神様は苦笑いをしながらお聞きになるのです。
例えば、「主イエス・キリストによって。アーメン。」これは「主イエス・キリストの名によってお願いします。アーメン。」主イエスと深い交わりにいますか。わたしたちは、ますます、イエスと深い交わりに入ってゆきた いのです。神様、あなたの名は何ですか。
ふと気づくのです。神様は名を持っておられない。

神様は唯一の方です。わたしたちの父さん、母さんです。当たり前ですが、父さん、母さんに向かって名で呼ばない。
名を聞きたい。神様がどのような方で、どのような力を持っておられるか知りたいのです。

いや、それ以前に、わたしたち人は神様は何人もいると思っているのではないでしょうか。どんな神様ですか? その神様は何が出来るのですか? どこに導いてくれるのですか?

神様は言われます。わたしは「ある」というものだ。わたしはいつも言っています。聖書の言葉は動いている言葉として考えなさい。「わたしはある」が神様の名だとはよく分からない。
「ある」は「為す」の意味があるのですと言われると少しわかる。
「ある」は状態を示すのではない。神様が今、ご自分の意志でこのようにおられますということなのです。これが「ある」の意味です。今をこのように造っている。また、神様が別のように思えば、別のようになる。別の状態を造ることが出来るのです。時間と空間は神様のものです。神様は時間を超えて、空間を超えて何でもできる。それは、時間空間を造られたからです。
見えるもの、見えないものを自由に動かすことが出来る。いのちを与える、取り去ることが自由にできるのです。

神様がモーセを遣わされたのは、イスラエルをご自分の思いの通りにしたいからです。わたしは「ある」、わたしの思うイスラエルにしたいのです。イスラエル、わたしの心のうちに歩みなさい。
イスラエルを導くのは神様のみ心です。

「わたしはある」は神様の名ではありません。神様には名前がない。神様はご自分の本質を現されているのです。

神様はわたしたちに問われます。あなたの名は何ですか。何を求めているのですか。何に向かって歩いているのですか。わたしとあなたのつながりは何ですか。

イエスがわたしたちに問われているのです。あなたはわたしにとって何ですか。あなたはわたしの中にいますか。わたしが呼びかけている声が聞こえますか。

災難が起こった。その災難に出会わなくてよかった。あの災難にあったのは罪深い者だよ。
あなたは罪がないのですか。悔い改めうるほどの罪はないのですか。
この災難の出来事は、あなたは自分を見つめなさいと悔い改めを求めているのです。

ある人がぶどう園にいちじくの木を植えた。実がならない。じっと3年待った。3年待ったが実がならない。この木を切り倒せ。園丁は言う。水が足りなかったのはないでしょうか、肥料が足りなかったのではないでしょうか。
いや、違う。この木は回心しようとする心がないのだ。

支えられている。それが見えない。神様が見えない。自分が見えない。

イエスが園丁。神様、今以上に水をやります、肥料をやります、もしそれでもだめなら、切り倒してください。わたしたちに回心を求めるために、神様のみ心を知ってもらうために、イエスはわたしたちにいのちを与えられました。イエスはご自分のいのちを献げられたのです。

イエスの名は主は救い。イエスはインマヌエル。
救いは主とともにいること。
イエスと共に働くこと、イエスと共に歩くことです。

問われています。
あなたの名は何ですか。
何を求めているのですか。何に向かって歩いているのですか。
わたしとあなたのつながりは何ですか。


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