「四旬節第5主日)」(C年)説教
2016年3月13日・加藤 英雄師


 

  朝早く、再びイエスは神殿の境内に入られた。今日も、神殿の境内で神様のみ心を語る。み心を語る時、神様の霊がイエスの体を通して言葉となる。言葉が聞く人の心に入る。心に刺さる。心に刻まれる。大勢の人がイエスを待っている。イエスの周りに集まってくる。
  イエスは語っているところに、律法学者たちやファリサイ派の人たちが姦通を犯した女が連れて来て、真ん中に立たせた。イエスは姦通の女と出会った。姦通の女はイエスの前にいる。律法学者たち、ファリサイ派の人たちは言う。先生、律法ではこの女を石で撃ち殺せと書かれていますが、あなたはどうなさいますか。
姦通の女は、きっと緊張のうちに、震えながら、人々の真ん中に立っている。イエスは姦通の女の人を見つめながら、周りの人たちに問います。あなたたちはこの女の人の処罰を求めているのですか。律法によって裁くのですか。律法によって命を奪うのですか。

この時、わたしはイエスが語った放蕩息子のたとえを思い出したのです。父親は、お父さんは帰ってきた弟を温かく抱きしめました。同じような思いであったのでしょうか。イエスは今日、姦通の罪を犯した女の人に温かい言葉をかけたのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう、罪を犯してはならない。」

弟は律法を守っていない。いや、律法なんて俺には無用だ。律法はただ人を縛るものだけではないか。俺に何の楽しみも与えない。この時弟は何も持っていなかった。一人では生活できない。しかし、生きている。弟よ、あなたは支えられているから、今、生きているのだ。それを知りなさい。
弟は放蕩を尽くし、父さんからの財産を食いつぶして帰って来た。父さんは弟を見つけ喜んだ。抱きしめた。兄さんは弟を見て嫌な思いをした。父さんの息子であるあいつは律法を全く守らなかった。あいつは神様のうちにいない。あいつは死んだのだ。父親は言う。そうだ、兄さん、お前の言う通り弟は死んだ。しかし、今、弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜ぼう。大いに喜ぼう。

律法を大切にする。律法は神様のみ心だからです。神様のみ心は生きる命を喜ぶ。生きる力を与える。律法は生きる力を与える力です。

弟は生きる者になった。生きるとはいのちを喜ぶこと。律法を犯した弟が生きる。父さんにとってこれほど大きな喜びはない。死んでいたのに生き返った。姦通の女の人は罪のうちにいる。イエスは言われます。この女の人は罪の荒れ野にいる。荒れ野を歩くのです。荒れ野に道を用意するのです。荒れ野は神様へ通じる道です。

人々に問います。律法のうちにこの女の人を裁きたいのですか。裁くのは誰ですか。権力を持っている人ですか。権威を持っている人ですか。律法によって裁く。本当の律法は神様の心です。神様の思いのうちに生きているものがこの女の人を裁きなさい。あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。

放蕩息子の兄さんは文字の律法によって生きる。弟は父さんの息子であり、律法のうちにいない弟と兄弟のつながりはない。律法によって弟は悪いもの、弟は死すべきもの。兄さんは弟を裁いていた。

律法学者たちファリサイ派の人たちにとって姦通を犯した女は死すべき者。律法によって命を奪われる者なのです。

わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18・23)

イエスは女の人を温かく包みます。
「婦人よ、誰もあなたを罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

弟、姦通を犯した女の人、そして、わたしたちみんなに新しい出発が与えられました。
エルサレムに住む者となる。わたしたち皆がエルサレムに住む者となり、生きる喜びを味わうのです。


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