「受難の主日(枝の主日)」(C年)説教
2016年3月20日・加藤 英雄師


 

 入城の福音 [ルカ19・28-40]
  イエスは先頭に立ってエルサレムに向かって歩きます。エルサレムこそ、エルサレムの神殿こそわたしの場である。エルサレムの神殿が神様を語っている。エルサレムの神殿は神様の栄光。神様と出会う場です。 イエスはエルサレムに入られる。子ろばによって入られる。誰も乗ったことのない子ろばが主のために用意されていた。ろばは日常生活の働きものです。荷物を背負って運びます。馬は戦場の武器です。ろばは人と一緒に歩きます。生活を造ってゆきます。わたしたちに平和をもたらすものです。 子ろばがイエスのところに引いて来られました。イエスがろばに乗られます。ろばの上に自分の服を敷きます。ろばに乗って進むイエスを見て、人々は自分の服を道に敷きます。イエスを見て人々は神様を賛美します。そして叫びます。主の名によって来られる方、王に祝福があるように。 この叫びは抑えられない。人々の心からの叫びだ。この叫びが祈りになっている。

受難の主日  ユダヤの国にとってイエスとは何者ですか。ユダヤを支配するローマ帝国にとってイエスは何者ですか。そして、日々生活している人々にとってイエスは何者です か。
ローマからの総督ピラトはイエスに尋問します。
お前はユダヤ人の王なのか。
イエスはお答えになる。わたしはあなたの言う王ではない。
あんたが言う王とは人を支配する力を持つ者。もしわたしが王であっても、人を支配するものではない。人のために働く王である。
祭司長、群衆は言う。この男は教えながら、民を扇動しています。
ピラトは言う。この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。
ユダヤ人たちは叫ぶ。十字架につけろ、十字架につけろ。
ユダヤの国の使命は何だったのでしょうか。神様はアブラハムを選ばれた。
アブラハムは、今を捨て、新しい国を造るため出発しなさい。新しい国、それはすべての民の祝福の源となるのです。アブラハムは主の言葉に従って出発した。イスラエルの始まりです。
神様はモーセを選ばれた。人は人の奴隷であってはならない。 モーセはファラオの奴隷であったイスラエルを、人として生きる国を目指して、エジプトから出発したのです。
アブラハム、モーセがイスラエルの地、ユダヤを目指したのです。

ユダヤの国は神様の思いのうちにある国ではないですか。ユダヤの国、ユダヤの人々が神様を忘れている。イエスは神を語るのです。いのちを語る、真の喜びを語るのです。

ローマ帝国にとってイエスは何でもない者。力のないもの。ユダヤ人の宗教者ではないか。
ユダヤ人たちはイエスをローマ帝国への反逆者とした。

毎日生活している人々にとってイエスは生きる力を与えてくださる方。苦しむ心を受け取ってくださる方。いのちを大切にすることが神様への道ですと教えてくださる。

イエスは誰ですか。
十字架で苦しんでいる。お前は他人を救ったのだ。自分を救え。
イエスは自分の体によって教えられます。人は他人を救うためにある。他人を隣人とする、他人を友とするのです。
自分を救えない。自分が自分に自由を与えることが出来ないのです。自分が自分のために何も出来ないのです。自分に快楽を与えない。自分に人を支配する力を与えない。

泣く。自分と自分の子のために泣きなさい。
自分を見つめなさい。自分が自分の子のために何をしたらよいのか、何が出来るかを思いなさい。何もできない自分を見つめなさい。

イエスにとってすべての隣人が自分の友なのです。隣人のために生きなさい。
いのちをもって生きる。
友が神様を知りますように。
いのちの尊さを知りますように。
隣人のために、友のために苦しみを受け取れますように。
これが神様への道。枝の主日ではないでしょうか。
そして、これが受難の主日ではないでしょうか。


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