わたしは罪を犯しました。わたしを清めてください。わたしの声を聞いてください。わたしがあなたのもとに生きることが出来ますように。
例えば、お酒がやめられない。夕方になると落ち着かなくなり、飲みたくなる。駅の近くに飲み屋さんがある。カウンターに坐る。同じところに坐ると大体同じ人が坐っている。飲んでいる。お酒を飲む、その時が一番の安心、気を休める場だ。心が軽くなる。気分が自由になる。お酒を飲むといつも思う。善い事をしよう。人は神様によって造られた神様の道具だ。わたしたちが善い事をしなければ誰が善い事をするのだ。お酒の世界は(酔い)善い世界だ。体の調子がいいともう一軒行きたくなる。 欲求のうちに悪いことをしてしまう。飲んでいたから仕方がない。自分で自分を赦してしまう。
司教さんが入院した。面会出来るようだよ。司教さんの病室は、じきに、贈り物で埋まってしまう。その司教さんは言います。少し悲しい。人を思いやる心が隣人に向かい、静かな力となって教会が働くものとなればいい。
マザーテレサが多くの、様々な団体から表彰を受ける。マザーテレサは始めに聞きます。この表彰は賞金がいただけるの? 名誉だけの表彰ならいりません。
今日、自分の信仰を考えたいのです。イエスの時代には律法を守りなさい、律法によって正しい道を歩むのです。律法が神様への道です、と教えられてきました。どのように歩くのかわからなくなったら、律法学者に聞く、ファリサイ派の人たちに聴くのです。
律法の世界は人の世の世界ではないですか。人の世が律法によってきちんと整備される。律法は世界を支配する道具となっていませんか。律法は神様のみ心です。神様のみ心のうちに生きようとしなければ、神様へ届かない。その生き方は律法ではない。
わたしたちはイエスに出会った。イエスの姿を見た。イエスの道を見た。イエスの姿に神様のみ心を見た。イエスの姿こそ律法。
イエスは言われました。新しい掟を与える。第一に、神様を愛しなさい。心を体をもって精一杯愛しなさい。第二に、隣人を自分を愛するように愛しなさい。
わたしたちは信仰の道を歩いているのか、考えてしまいます。愛していますか。愛するとはつながっていることです。愛するとは与えることです。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
*神様を愛していますか。神様を愛するとは、神様の思いは、あなたが支えられている自然のために働くことです。あなたが支えられている人のために働くことです。
*隣人を愛していますか。隣人とは隣にいる人ですか。いや、そうではない。外に出て行って人と会い、その人を隣人とするのです。聞く者になることです。隣人は人の助けを求めている人です。出て行かなければ隣人と出会えません。あなたと一緒に生きて行く人です。
自分の信仰生活は不十分。わたしには隣人がいません。人のために働いていません。自分の生活の中で、人のために使うお金などありません。
人は生活しています。生きています。何に向か会って、今、生きているのですか。何のための命なのですか。イエスの姿を見つめていない。イエスから教えられた道を歩いていない。
わたしたちがどうであろうとも、わたしたちは愛されて生きているのです。悪いことをしたから、命を奪われるのではありません。悪いことをした、正しいところに帰ろう。やり直そう。
本当に自分の生活が外れていると思っていますか。
もしそうでなければ、聖書の言葉はむなしい。今日の聖書の言葉はわたしたちの前を通り過ぎてしまいます。
主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。(サムエル下12・13)
今日も喜びの一日となりますように。