「年間第22主日」(C年)説教
2016年8月28日・加藤 英雄師


 

   第一朗読シラ書を読みました。
始めに、「子よ、何事をなすにも柔和であれ」という言葉をいただきました。柔和について考えたいと思います。 柔和とは思いやりがあって優しい、またおとなしく事に従順であることです。柔和な人には話しかけやすいと思います。柔和な人といると心が落ち着きます。柔和な人と友だちであったらいい。柔和でありなさいとは人とつながることの大切さを言っていると思います。一緒にいることを喜ぶ。相手に人の安心を与えることが出来る。つながりが愛すること、愛されていることです。物を知っている人は柔和になれない。偉い人は柔和になれないと思います。

古い友人がいるのですが、ある時、久しぶりに会ったのです。言われました。お前は先生みたいな話し方をするな。知ったかぶって話している。教えるように話している。普段の生活でそのようになってしまったのかと深く反省しました。

聖書で柔和とは腰の低いこと。貧しいこと。謙遜なことです。小さい者、弱い者の姿です。柔和な人こそ心から神様を賛美できる。神様に祈ることが出来るのです。

安息日。イエスはファリサイ派の議員さんの会食に招かれました。皆がイエスの様子を見ている。イエスは話されます。会食する、一緒に食事をするのは喜びではないですか。食べるもの、飲むものはすべて神様からの恵みです。食事を用意してくれた人たちの仕事の恵みです。そして、一緒に語り合いながら、食べる、飲む、食事を楽しむ、こんな嬉しい事はありません。
どの席に着く。そんなに大切な出来事ですか。儀式のように食事をするのですか。

もしあなたが昼食、夕食の会を催す時には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。イエスはそんなことを言われる。実際、本当に、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を自分の家庭に招くことが出来ますか。その食事で楽しく、和やかに、喜びをもって過ごせますか。その人たちを食事に招きたいほど大切に思っていますか。 またイエスは言われます。その人たちはお返しが出来ない。 愛するつながり、与える者になりなさい。お返しがないのは当たり前。人との付き合いで、何かの時にお礼をする、お返しをする。それが当たり前です。そのしきたりを破りたい。

イスラムの人たちだと思うのですが、昔、旅行に行くと、貧しい少年、少女が寄って来て、バクシ―ㇱ、バクシ―ㇱと言ってお金をせびるのです。お金をあげるとそのまま去って行く。わたしたちは、この子たちは愛想がない、お礼も言わないでと呆れたりする。
よく聞いてみると、お金持ちは貧しい者が求めれば与えなければならない、という教えがある。それを行っているのだ。金を持っているものが貧しい者を助けるそれは当然のことだ。そう教えられたのです。お返しがないのは当たり前なのです。

わたしたちにも人情がある、やさしさがある。人情はいつもお返しを求める、ほんとのやさしさになっていないと思うのです。
生きる、一緒に生きる。柔和なものになる。与える者になる。

わたしは童話が好きですが、中でも、小川未明の童話をよく読みます。そのなかで、野ばらという話を紹介したいと思います。

大きな国とそれより少し小さな国が隣り合っていました。国境に二人の兵隊さんが派遣されていました。都から離れた遠いところです。二人は最初は話もしない。挨拶もしません。一人は老人、もう一人は青年でした。そして、そこには一株の野ばらが咲いていました。寂しい所であったので、二人はじきに仲良くなり、一日の大半は将棋を指したり、話をして過ごしました。また、冬が去って、春が来ました。そのころその二つの国に争いがおきました。その時から、二人は敵味方の関係になったのです。老人は言います。わたしたちは戦っている。わたしは老人だけれど、少佐だからわたしの首を持ってゆけばあなたは出世ができる。だから殺してください。青年は言います。何を言いておられるのか。わたしたちは敵同士でしょうか。戦争はずっと北の方で起こっています。わたしはそこへ行って戦います。青年はそう言い残して去って行きました。国境にはただ一人老人だけが残されました。野ばらの花が咲いて、ミツバチが群がっています。その日から老人は青年の身の上を案じていました。ある日のこと、旅人が話しました。小さな国が負けて、その国の兵士は皆殺しになって、戦争は終わった。老人は青年も死んだんだろうかと思いました。そんなことを思いながら、老人はうとうとと居眠りをしました。彼方から大勢の人の来る気配がしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして、馬に乗って指揮をしているのはあの青年であります。その軍隊はきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通る時に、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。老人は何か言おうとしたとき目がさめました。それから一月(ひとつき)ばかりしますと、野ばらは枯れてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。

二人の柔和さ、温かさ、つながりに心が温まります。柔和さ、与える者になる。ありがとうの心ではないでしょうか。


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