人は神様に愛され、いのちが注がれ。生まれます。神様に支えられながら生きます。神様が父さん。父さんである神様を見つめます。耳を傾けます。わたしたちは神様の思いのうちにある。
わたしたちは生きている。自然の恵みに支えられ、人は人のうちに人となり、支えられ、支えて生きている。人は必要なすべてのものが与えれえて生きているのです。
パウロはオネシモに出会った。牢の中で出会った。パウロはオネシモに洗礼を授けた。パウロはフィレモンに手紙を書くのです。オネシモはあなたのところにいた奴隷。逃亡奴隷。オネシモをあなたのもとに送り返します。オネシモを奴隷以上のもの、愛する兄弟として受け取ってください。オネシモはわたしの兄弟だからです。 フィレモン、持ち物である奴隷を捨てなさい。捨てられた奴隷は命を得るのです。人は神様のもとに捨てられる。
人は裸で生まれました。持っているものはすべて神様から与えられたものではないでしょうか。生きるために持っている。そして、支えるために、与えるために持っている。
わたしたちには大きな掟が与えられています。神様を愛しなさい。全身全霊をもって愛しなさい。そして、隣人を自分のように愛しなさい。
隣人を愛す。隣人のために働きなさい。与える者となりなさい。
イエスはわたしたちに厳しい事を言われます。あなた方の中にあるすべての出来事を捨てなさい。今、あなたを造っているすべてのもの、すべての出来事を捨てるのです。
父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうともこれを憎みなさい。 自分の父、母を捨てる。自分の父との出来事、母との出来事を捨て去りなさい。 わたしたちもペトロのように言ってしまうかも知れません。主よ、何を語っておられるのですか。あなたはとんでもない事をおしゃっています。 やはり、主イエスはペトロに言われたと同じように言われると思います。サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。
イエスはわたしたちに求めます。何も持たず、真っ白な姿になりわたしのもとに来なさい。そして、自分に与えられた十字架を背負って、キリストについて行くのです。イエスに従う道は与え続ける道です。自分が持っているもの、自分が得たものを与え続ける。自分が持っているもの、自分が得たものを父、母にあげることは出来ない。自分の妻、子供、兄弟、姉妹にあげることは出来ない。人情によって与えるのではないとはっきり言われるのです。この道は神の国への道です。この道を通らなければいけない。この世で受けた大切なもの、大切な出来事は捨てるのです。自分が大切にしているものを捨てられない者は神の国へ入れない。十字架を背負うことが出来ない。
しかし、捨てて行くことは出来ません、と言ってしまいます。
主は言われます。隣人を見つめなさい。苦しんでいる人を見つめなさい。支えられなければ生きて行けない人たちを見つめなさい。幼児が病気で死んでゆく。食べるものがなくて飢えている。体が不自由で何も出来ない。そのような出来事を見た時、与える者になりたいと思うのではないですか。
道を歩く。その道を歩きながら、少しづつ捨てて行けるのです。
自分の大切なものを捨てた時、もっとはっきりイエスが見える。
今日のイエスは剃刀のように鋭い言葉です。剃刀のように鋭く、よく切れる言葉を、人はよく受け取れないと思います。傷ついてしまう。頭のいい人が熱い正義をもって、目の前にいる人に切りまくる。頭の切れる人、口の鋭い人は人を傷つけてしまう。しかし、そこには正義の心がない。
厳しく語るイエス、また預言者の心を見てほしいと思います。語らなければならない。優しさ、柔らかさ、温かさが厳しさを求めているのです。 捨てて行くことが出来ますように。