「年間第30主日」(C年)説教
2016年10月23日・加藤 英雄師


 

  わたしたちの主イエスは神様です。イエスは愛とは何か、いのちとは何か、信仰とは何かを身体をもって示されました。わたしたちは愛を知りました。いのちの重さを知りました。そして一番大切なことは、イエスはわたしたちを愛されておられます。イエスはわたしたちに人の大切さを教えます。人は悪の世界にいてはいけない。悪の世界とは欲求の世界です。イエスは、ついには、悪の世界、欲求の世界に生きるわたしたちをわたしのもとに帰りなさいと買い戻されたのです。贖われた。贖いとは買い戻すと言いう意味です。わたしたちを欲求の世界から神様の世界に贖ってくださった。
愛はいのちを超える、わたしのいのちを超えるほどあなたたちを愛しています。
   いのちを超える愛。贖いの代金がイエスのいのちだったのです。イエスはご自分のいのちを捨ててわたしたちを神の国に招いてくださったのです。 わたしたちはイエスに愛されて生きています。愛とは隣人のために働くことです。あなた方も愛を示しなさい。隣人を愛しなさい。

神様を思う時、わたしたちは自分を裁いているように思います。いつも自分はだらしがないなぁと思っている。普段、信仰生活のことなどあまり考えていない自分がいるのです。教会を思う時、神様を思う時、やらなければいけない事ばかりが思い出されるのです。
教会の一員であるにもかかわらず、ずーっと教会に来ていない人がどんなに多い事だろうか。それでも、復活祭、クリスマスにだけでも来てくれるのは嬉しいのですが。

人は神様から命を注がれて生まれる。神様の愛によって生まれる。そして、生きる。生き生きと喜んで生きる。愛は生きること。隣人を自分のように愛しなさいとイエスはわたしたちに命じられた。

愛とは何ですか、いのちとは何ですか、言葉できれいに表されている。しかし、この今の生活には入ってこない。

教会に行かない。そういえば自分はキリスト者として何もやってきていない。もし、心に決めて、教会に行ったら、あらっ、珍しい、久し振りね、などと声をかけられるてしまう。教会で会って、久し振りねなどと言われたくない。

教会はいつも100点を取りなさいと言われているように思うのです。100点をとるために勉強しなさい。知識は勉強のため。勉強の楽しさは、好奇心はどこかへ行ってしまう。
あっそうか。会堂の指導者たちは言います。正しく生きるために律法を守りなさい。律法の知識によって正しく生きる。神様のみ心はどこかに行ってしまう。神様が見えなくなってしまう。

今日の福音でファリサイ派の人は祈って言います。神様、わたしは誇りをもって感謝します。奪い取る者でない。不正な者、姦通を犯す者でない。また、イスラエルを裏切ってローマに協力をしている徴税人のようなものでないことを感謝します。週に2度断食し、全収入の10分の1を献金しています。このような信仰生活を送ることが出来る、感謝、感謝です。 徴税人は神殿の真正面に立てません。人のいない夕方のころ神殿に来ました。徴税人と一緒に神殿に来ました。祈ります。目を天に上げられず、胸を打って祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

徴税人は罪人です。罪人は赦されない。しかし、この罪人は神様を求めているのです。心を込めて求めています。その願いを、その祈りを神様は聞き逃すことはあありません。神様はこの罪人を見つめます。心に留めます。

ファリサイ派の人の祈りは神様に届きません。律法に届いた道を歩いている。この世の神様、律法に従っているのです。

こんな話があります。
第二次大戦中の話です。フランスの山の中の村におじいさんとおばあさんが住んでいました。ある時、ラジオでこの村が爆撃されるという放送を聞いたのです。おばあさんは急いで教会に行き、神父さんに話しました。けれど、信用してもらえない。こんな山に爆撃機が来るなんて、そんなことはないでしょう。村中の人に言いました。みんな言います。そんなことはないよ。夜、おじいさんとおばあさんは家を出て丘に腰を据えます。しばらくすると、爆撃機が飛んできたのです。あぁ、やっぱりあのラジオの放送は本当だった。おばあさんは言いました。可哀そうだけれど、信じなかったから、こうなったのよ。仕方ないわね。わたしたちは救われた。神に感謝、神に感謝。


戻る