復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人かイエスに近寄って来ました。サドカイ派の正典はモーセ5書だけです。モーセ5書は律法の書と呼ばれています。律法には復活は記されていません。サドカイ派の人たちは言います。復活はない。
神様は見えるもの、見えないもの、すべてのものを造られました。神様は六日目に土の塵で人を造られ、人の鼻にいのちの息を吹き入れられました。こうして人は生きる者となったのです。
神様はご自分にかたどって人を造られました。人は神様と一緒に生きる命を喜ぶ世界に生きる。神様のいのちを生きる者は永遠に生きるのではないでしょうか、そんなことを思います。
しかし、人は神様から離れ、エデンの園から離れて、苦しみを、悲しみを味わう世界に住むようになったのです。 罪から解放された人は神様のいのちに生きる。その人が人生の旅路を終わった時、新しい永遠の命の世界に入るのです。
いのちは愛の世界、愛はいのちの世界です。一緒に喜ぶ、つながり合っている世界です。
復活にあずかる者の世界はこの世とつながっているのではない。その国で天使に等しいものであり、新しいのちに生きる神の子となるとイエスは言われます。
一つ疑問があります。イエスのラザロを生き返らせた出来事です。ラザロは死に、墓に埋葬されました。イエスは死者の国にいるラザロを呼び戻されました。ラザロにいのちを与えられ、この世に戻されました。ラザロは生きます。しかし、時が経つと、また死にます。ラザロにとってこの出来事は何だったのでしょうか。この出来事は復活ではない、いのちの蘇り(よみがえり)です。
ラザロは死を知りました。死を体験しました。死んだ時、ラザロの命が消えたのです。ある時、光が自分を包んだ。自分全体が光に包まれた。命に満たされた、この時、この世に戻ったのでしょう。ラザロは生きる。死を恐れない。ラザロは自由を知ったと思います。死を恐れない自由。神様を見つめる。今までとは全く違う生活を送ったのではないかと思います。
神様はある修道女に言いました。わたしはこの世では、あなたに何の恵みも与えない。人のためにに祈りなさい。人のために働きなさい。人のために苦しみなさい。苦しみをすべて受け取りなさい。自分の持っているものを与え続けなさい。その修道女は神様のものになったのです。新しいいのちの世界、復活の世界に入るようになったのです。
サドカイ派の人々の信仰は、律法のうちに生きる事です。
サドカイ派の人たちはイエスに質問します。「モーセは書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない。』兄弟がその妻を迎えますが、兄弟は次から次へと亡くなってゆく。最後の妻も死にます。復活の時、その女は誰の妻になるのでしょうか。」
イエスは答えます。それはこの世の出来事ではないですか。次の世は、復活の世界はこの世とつながっていない。文字の律法を使うのではなく、命の律法を読み、従いなさい。(Ⅱコリント3・6)
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。
今、あなたの一番の心配事は何ですか。心配事で心が悩まされていると、悩んでいると神様が見えなくなってしまいます。
生きる命を喜びます。生きる。愛する。命を見つめて歩いてゆきます。