「待降節第3主日」(A年)説教
2016年12月11日・加藤 英雄師


 

  救いの道はどこにあるのですか。命の喜びはどのようにして与えられるのですか。
ヨハネが現れた。神を信じ、神のみ言葉のうちに生きなさい。悔い改めて、洗礼にあずかりなさい。
そして、ヨハネは言う。わたしより優れた方が来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない。

     わたしたちは平和を求めています。神様からの平和を求めている。わたしたちは時々、平和が来ますようにと祈ります。イエスはわたしたちにお尋ねになります。あなたは平和に何を求めているのですか。 平和と言えば、皆が豊かな生活をする、貧しい人がいない。戦争が起こらない。静かな、穏やかな、笑顔がある、明るい生活が平和ではないですか。
 イエスは言います。平和はあなたが求めるような豊かな生活でも、深い祈りの生活でもない。忍耐して争いのない生活でもない。平和はあなたがたが造って行くものです。本当に豊かな生活を作って行きなさい。あなたが静かな人になりなさい。穏やかな、笑顔のある人になりなさい。そして、毎日熱心に祈りなさい。まず、あなたが平和を実現しなさい。

本当の豊かさは豊富なものによるものではありません。その豊かさはあなただけのものですか。一緒に食事を味わう仲間との喜びではないですか。本当の喜びは物によるものではありません。
穏やかさ、笑顔、祈りは人とつながっている、その喜びではありませんか。

平和はあなたが造って行くものと言いました。あなたが苦しまなければ、あなた辛い思いをしなければ、あなたは喜びを知ることは出来ません。今、待降節を過ごしています。神様と出会う日を待っています。それなのに特に、平日の朗読は苦しみ、悲しみの箇所が読まれます。

これは、生活の荒れ野、砂漠を経験したことがありますかと問われているのだと思います。にっちもさっちも行かない生活。でも、そんな生活があるのですかとわたしたちの方から問いたくなります。
 あります。世界の中で考えると、戦争が起こっています。その土地に住んでいる人々は命がおびやかされています。食べるものがありません。飲みものがありません。まさしく、その土地は命が失われる荒れ野です、砂漠です。
個人のことを言えば、体の全く不自由な人の生活を考えてしまいます。人の助けがなければ、食べられない、飲むことが出来ない。排泄も出来ない。動けない。この人の生活は荒れ野、砂漠です。

自分の命にかかわらなければ平和です。わたしたちにとっての平和は自分の生活、家族の生活の事だけではないですか。わたしたちの求めている平和は個人的な安心ではないかと思います。

イエスは言われました。「わたしの平和をあなた方に残す。わたしの平和をあなた方に与える。」
イエスは愛のうちに生きなさいと説きます。愛は与えることです。人が与えられていることを知り、愛されていることを知った時、与える者になり、愛するようになるのです。

ヨハネが言われた聖霊とで洗礼をお授けになる方、来るべき方は、あなたですか。あなたがキリストですか。 わたしのうちに入りなさい。わたしの世界を知りなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る。そして、貧しい人は福音を告げ知らされている。


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