今日の福音書はイエス様の活動開始を語ります。
イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤの町ナザレに退かれた。そして、ナザレを離れ、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
その時から、イエスは宣べ伝え始めた。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
悔い改める。悔い改めた時、天の国が見えると言われます。自分の目の前に天の国がある事を知ります。天の国に向かって歩きましょう。それは、アブラハム、モーセの出来事を思い起こします。
アブラハムが神様の声を聞きました。あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。人の世界で豊かに暮らすのではなく、わたしの祝福を求めなさい。今、自分たちの楽しんでいる豊かさを捨てました。土地を離れました。神様の言葉に従って旅立ちました。
モーセは神様の言葉に従って、イスラエルをまとめ、エジプトから脱出しました。今の生活から脱出するのです。すべてを捨て、すべてから離れて荒れ野、何もないところへ旅立ったのです。
悔い改めるとは新しく出発すること、そう思った時、アブラハムとモーセの出来事を思い出したのです。悔い改めなさい、それは裸になりなさいということだと思います。今持っているものは何のためですか。教会報「ほんじょ」11月号で「いらないもの」という文章を書きました。
自分の周りにいらない物ばかりが溢れている。そんなものは、なければないでいい。持っている物で、命と引きかえにしたい物はない。わたしはいらないもので着飾っている。
大切なものを得るために、今持っているものを捨てる。この狭い門を通るために、痩せなければいけない。着ているものを脱がなければいけない。何かを得るために、何かを失わなければならない。持っている物を見ます。これもいらない、これもいらない、みんないらない。何が本当に必要なのか、その時、始めて考えるのです。わたしは自分の好みで、ふと思って得た物で大切なものを失ってきたのではないかと思うのです。欲求に、物で満足している自分がいるのです。だから、こんなに要らないものがある。いらないもので囲まれている。全部いらないものだ。
悔い改めるとは真に生きることです。神様を愛すること、隣人を愛することです。
ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、魚は取れましたか?イエスが聞きます。大漁になったとき、収入が増えます。生活が楽になる。もっと楽にするために何を買いますか。物が増えてくる。
この間、兄が帰天しました。納骨が終わったのですが、立派な本が送られてきました。なんと、その本はお返しを選ぶ本なのです。わたしは、物はたくさんある。けれど、どうせだから、と思い、頼んでしまいました。
悔い改めはイエス様の発見ではないでしょうか。
イエス様は言います。
わたしに従いなさい。
あなたは何を持っているのですか。
わたしはあなたに見せるものは何もない。しかし、わたしは今ここにいる。わたしの周りにあるもの、わたしを包んでいるもの、天も地も、海も川も、すべてのもの皆がわたしを支えている。と同時に、わたしが皆を支えている。
わたしは自分を捨てている。だから、すべてのものはわたしの中にある。わたしが無であるから、すべてのものはわたしの中にある。わたしは何も持っていないけれど、わたしの中にすべてがある。
洗礼について、コリントの教会への手紙はこのように言っています。
キリストがわたしを(パウロを)遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためである。
洗礼がまことの悔い改めです。イエスと出会った証です。イエスの愛を知った。命の尊さを知った。与える喜びを知った。愛されていること、愛すること、生きる、生き生きと生きることを知った。
洗礼は出発です。この世からの、この世にうごめく欲求らの脱出です。
イエス様の中にどんどん入って行きたいと思います。