「年間第6主日」(A年)説教
2017年2月12日・加藤 英雄師


 

  2月5日に日本26聖人を祝いました。そして、2月7日(火)大阪城公園で高山右近の列福式がありました。参列しました。一万人が集まったと聞きました。神父さんたちもたくさん集まりました。200人ぐらい集まったのではないかと思います。赤いカズラが配られ、赤い姿の神父さんたちと一緒に祈ったのです。 数年前の長崎の列聖式の時も大勢の神父さんたちが集まりました。神父さんたちが大勢集まるのはいいですね。召命が少ないと言われていますが、仲間がこんなにいるのだと思うと嬉しい思いです。
昨日11日は世界病者の日、ルルドの聖母の日でした。関口教会で大司教さん司式の病者のミサが行われました。参加者はいっぱいでした。大勢の人たちと一緒に祈る、一緒にミサに与るのはいいですね。

神様の業はいつも不思議です。
第一朗読・シラ書は言います。人の前、わたしたちの前には命と死、火と水が置かれている。手を差し伸べて、欲しいものをとるのです。神様への道を歩く意志を持っていれば、命を選ぶ。生きている命を選びます。生きる命とは隣人のために働く命です。隣人とつながる。つながる時、神様の力が働きます。命と命のつながり、それが生きる命です。
死とは自分だけの世界です。自分が楽しむ。自分を囲むものすべてが自分のためにあると思ってしまう。あなたは何のために生きているのですかと問われる。自分のために生きている。
しかし、主は言われます。その命はわたしからの命ではない。
*不思議ですね。人は神様から命が与えられ、生きる者となったのですが、自分が生きるために命が注がれているのではなく、隣人のために働く命が注がれているのです。

コリントの教会への手紙を読みました。わたしたちはまことの知恵のうちに生きている。まことの知恵とは神様の知恵です。まことの知恵は恵み、喜びをもたらすもの、生き生きと生きる命が働く神様の力です、神様の霊です。まことの知恵によって、出来事を見なさいと言われます。

*神様の不思議が見えます。わたしたちはイエスの姿を見つめます。すべてを掌に持っておられる神様が何も出来ない人となられた。不思議。その方は人の罪、咎を背負った。その方イエスが十字架にかけられた。わたしたちはイエスの十字架を見るのです。人々に捨てられ、弟子たちに捨てられ、神様に祈った、しかし、神様は何もお答えにならなかった。苦しみ、悲しみのうちに、まったく一人になられた。何でも出来る神様が何も出来ない、疎外された世界に入られたのです。

福音を読みました。イエスは言われます。まことの知恵をもって、これから語るわたしの話を聞きなさい。 律法を守りなさい。律法の文字、条文を守るのではなく、まことの律法、神様のみ心に従いなさい。パウロは告白します。律法は神様のみ心、そうです、イエスこそ神様のみ心のうちにおられます。まことの律法は今も、生きて働いておられるイエス・キリストではないですか。
イエスは言われます。わたしは律法を完成する。 わたしたちはイエスの姿に律法を見ます。

どんな小さい掟でも、それを破ろうとしてはいけない。えっ、律法はそんなに厳しい、窮屈なものなのですか。いや、律法を心で受け止めたいですね。だから、律法の小さな掟であっても、無視しないで全部守りなさいというのではありません。小さな掟であっても、この掟の思いを心に留めて行うのです。律法は人の心を育てるものです。神様の心と出会う道です。

義でありなさい。あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていますかと問われます。義とは神様に従順であることです。神様のみ心のうちにいることです。
一つ忘れてはいけないこと、それは律法の書とはモーセ5書だということです。律法は法律のような文字による条文ではないのです。モーセ5書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。神様の人への愛の書なのです。

人を殺してはいけない。人を殺したものは裁きを受ける。それは当たり前のことではありませんか。でも、イエスは言われます。人を殺すとは身体を殺すだけではない。その人の存在を許さない。そんな奴は消えてしまえばいいと思うこともその人を殺すことですと言われるのです。
例えば、「ばか」と言ってはいけない。「愚か者」と言ってはいけない。それはその人を殺していると言われるのです。「ばか!」お前はどうしようもない者だ。お前はわたしたちの仲間に入れない。
愚か者、お前は律法を知らない者。お前を相手にしない。
これこそ、その人たちを無視している、その人たちを殺しているのではありませんか。

兄弟に反感を持っていることを思いだしたなら、仲直りをしなさいと言われます。反感を持つとはつながりを断っているのです。その人は、その兄弟は自分との交わりを断っている、生きたつながりがなくなっているのです。つながりを生きるものとする、その時が祈りの始まりです。

洗礼を受けてイエスの中に入る。イエスから与えられた道を歩む。これはまさしく、神様との誓いです。それは誓いを立てる、立てないではない。あなたの神様との強い約束です。心と体の約束です。命をかけた約束です。その思いのうちに生活を送るのです。

出来事を見つめる。その出来事を自分にかかわりのあるもの、自分のものとする時、曖昧に受け取ってはならない。
「然り、然り」「否、否」と言いなさい。
イエスのみ言葉を聞いた。それは自分の世界です。曖昧にしてはならない。自分が何であるか、何を求めているのか、どういう道を歩いているのかをしっかりと見つめ直すのです。


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