「年間第7主日」(A年)説教
2017年2月19日・加藤 英雄師


 

   第一朗読・レビ記を読んで驚きました。主である神様はわたしたちに言われるのです。
「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」
日常生活を考えると、思う通りの信仰生活を送っていない。ちょっとこんなことを言ったら、寂しいけれど、むしろ日常に信仰生活を考えていない。

聖なるとは何かちょっと考えました。すぐ思い出すのは、「聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。」という言葉です。聖なるというとすぐ神様のことを思い浮かべます。神様の姿が聖です。神様のみ心、そして、み言葉。清い、全く清い。神様のみ心は聖なるところ。 例えば、もし、神様のみ心に入れてもらったら、み心の中に深く入れば入るほど、自分がどんどん清められて行く、自分の我がだんだんと消えて行くのです。そんなことを思ったのです。
  しかし、あなたも聖なる者になりなさいと言われると、自分に言われていると思えないのです。

   こんなことを思いました。仕事の中である問題が起きました。その問題をうまく解決するために、人と会い、話し合い、心を使います。1週間、2週間、いや、1か月、体を休める時がない。疲れ切ってしまいます。そして、ついに、ある日、問題が解決しました。安心が心に生まれる。嬉しい。
その時、一人でゆっくり風呂に、大きな湯船の風呂に入ります。温泉だったらなおいい。体を丁寧に洗って、風呂を楽しむ。お湯の温かさが体にしみて、快さの中に入る。身体の疲れが癒され、心がぬぐわれる。聖なる者になるとは、神様の温かさの中に入るということではないでしょうか。
聖なると言われると聖とは程遠い自分が怒られているように思ってしまう。聖なる者になりなさい、聖なるとは程遠いあなたは話にならない。聖なる者とは神様の安らぎを知っているものだと思うのです。神様の温泉に入った者です。

聖なる都は神様の姿だと言いました。天の父の姿です。父さんのようになりなさい。わたしたちは父から命を注がれてこの世に生まれます。わたしたち、子がどんな子であってもわたしたちは父の子です。父はわたしたち一人一人を見つめています。善い子がいる。悪い子がいる。善い子によりも、悪い子に心を留めるように思います。罪のある子を包みます。罪ある者に言います。わたしの愛を知ってわたしのもとに戻っておいで。わたしたちも罪人に対して父のようになる、大きな者になる。
人が皆兄弟だと知った時、人に恨みは抱けない。人を愛する、自分のように愛する。

パウロはコリントの教会への手紙で言います。あなた方は神の神殿です。神様の霊が神殿に住む。神様がわたしたち一人一人の中に住んでおられる。だからわたしたちは聖なる者。

福音書は語ります。天の父が完全なものであられるように、あなた方も完全なものになりなさい。父さんはこのように人を愛しておられる。悪人に手向かってはならないと命じられる。子供と本気で争うのですか。求めるものには与えなさい。あなたから借りようとする子供に背を向けてはならない。敵を愛しなさい。敵のために祈りなさい。自分を苦しめる者のために祈るのです。敵も兄弟。自分を苦しめる者も兄弟ではないですか。
父さんは大きい。父さんへの道を歩みます。

完全な者になる。完全とはその者の、その者である姿です。神様は完全。見えるもの、見えないものを造られた方。ものに命を与えられ生きるものとなさる方。時間を超え、空間を超える方。不足のない方。本当の喜び、まことの平安、生き生きと生きる力がその方から来る。
人はどのように完全ですか。人は人の姿で完全です。人は小さい者、弱い者として造られています。もっと大きくなろう、もっと強い者になろう、父のようになろうと進んでゆく。その姿が完全な者になる姿です。 父さんを心から愛することが出来ますように。自分自身を愛するように隣人を愛することが出来ますように。


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