この間、少し前ですが、流感インフルエンザAにかかってしまいました。まず、体がだるくなってきました。咳が出ます。鼻水が出ます。気力がなくなります。食欲がなくなりました。食欲がなくなることは寂しいことです。「ぱぱす」に行き、薬の係りの人に、風邪を引いたようですと風邪の薬を求めました。インフルエンザかも知れませんね。インフルエンザは風邪と違う薬が必要です。インフルエンザには風邪の薬は効きません。お医者さんに診てもらうのがいいです。そう言われて、医者に行こうと思いました。「ぱぱす」では食欲が出る小さな瓶の飲み物を買いました。その飲み物は効きました。食欲がない時、二日間何も食べなかったのです。 近くの医者の先生のところに行って、診察を受けました。インフルエンザの診断を受け、薬をもらいました。それから三日間、毎朝のミサを休み、勉強会も休み、全く何もしないで部屋に閉じこもりました。全部で一週間は人と会わず、部屋の中でじっとしていました。
食べる、食べなければ力が出ない。ゆっくり休んで体の力を取り戻す。そして、病気に勝つ。今まで風邪で休むことなどありませんでした。初めての経験です。
今の時代は本当に便利に出来ていると思います。お湯を入れればスープが作れます。缶詰のコーンがあります、ツナがあります。薬がほしければ、薬屋があります。近所に内科の医者がいます。病気になって、あぁ、支えられているなと思ったのです。
教会に、お金がなく、食事をしたい人がたまに来ます。食事を出します。そんな事を思うと、今、自分が支えられている者となったのでした。
弱くならないと、身体が動かなくてどうしようもないという事が起らないと、支えられていると感じることがないように思います。何も出来なくなった時、手を差し伸べてくれる。嬉しいですね。
わたしは高校を卒業して就職しました。就職、会社の面接に行きます。面接と聞いただけで、落ち着かなくなります。面接のその席で、質問されて返事が出来るか。心臓が鳴りっぱなしです。実はわたし、高校一年の夏、吃りの学校、吃音矯正学校に毎日通いました。畳の大きな部屋に座り、発声練習をする、立ち上がり先生の質問に答える、皆の前で文章を読む。それでもわたしの吃音は治りませんでした。(わたしはそれでも、その場になれれば、安心があり、引っ込み思案ではありませんでした。) 中学校に入る時も面接がありました。そして、就職の面接がありました。面接なんかなくしてほしいと、必死に思いました。苦しかったのです。しかし、逃げられない。その時が来ます。
今日の第一朗読・イザヤ書は言います。 わたしは苦しみの中にいる。希望が見えない。真っ暗な闇の中にいる。この時から解放してください。神様、助けてください。良いしるしを送ってください。神様は何も返事をなさらない。主はわたしを忘れたのか。わたしは見捨てられたのか。主は言われる。お前はわたしの子ではないか。自分の子を忘れることはない。お前はわたしの目の前にいる。お前がどんな状態であろうとも、どこにいても、どんな時でも、わたしはお前を見ている。
でも、どんな言葉をかけられようと言葉の愛でしかない。どんなに優しい、励ます言葉をかけられても心は休まらない。その事から逃げることが出来ない。苦しみと出会う時が来るのです。
イエスは言われます。それがお前の苦しい事か。その中にいたらどんな好意も通じない。どんな優しさも通じない。お前は好意が通じない人になっているのだ。お前に言う。大いに恥をかけ。
恥をかいて、自分がいかにくだらない弱い者か、くだらない小さな者かを知りなさい。
お前は自分を大切にする世界にいるのだ。その世界は求めている。ちゃんとした自分でなければならない。人に負けてはいけない。能力を持つ、仕事が出来る。それが誇りの生活を送りたい。
神様はどこに行ってしまったのか。お前の信仰はどこに行ってしまったのか。
だれも二人の主人に仕えることは出来ない。「天の神」と「この世の神」とに仕えることは出来ない。「見える世界」から「見えない世界」へ脱出しなさい。
「見えない世界」は「見える世界」を包んでいます。例えば、ここに物がある、物が働いている。物があるのはその物をおいた力があることです。心があるから物がある。物が働いている=物が何かをしている。物が何かとつながっていることです。
プレゼントがある。プレゼントには心が詰まっている。手伝いをする。手伝いに心がこもっている。祈りに心がこもっている。見える物に心が入り、物が生きるものとなるのです。
わたしが生きている。見える世界です。生きるのに必要なものは全部与えられている。見えない心によって生きる力となる物が与えられているのです。つながりです。
思い悩むな。この世のことで思い煩うな。見える世界から脱出するのです。何も出来ないわたしが、小さい、弱いわたしがこんなに支えられて生きている。弱い、小さいから見えない世界が見えるのです。支えられているから、支える者となる。損をする者となる。見える世界にいれば得をしたいけれど、見えない世界だから損をして生きる道を歩むのです。
二人の主人に仕えることは出来ない。この世、見える世界から神様の世界に向かって歩みます。