「四旬節第1主日)」(A年)説教
2017年3月5日・加藤 英雄師


 

  主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に、命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 神様は人に力を与えられました。海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを人に支配させよう。人は、わたしたちは特別な存在だと思っている。神様にかたどって造られている。神様のいのちに生きている。 神の命を注がれて生きているわたしたちは今、神の命に生きていますか。神様に全く従順に、豊かな喜びのうちに生きていますか。四旬節を過ごすわたしたちは思うのです。神の命を忘れているわたしたちは土の塵である。人は土の塵で造られている、塵に帰って行くものである。

人は神様に導かれ、エデンに住んだ。園の中にある木、木の実は人に与えられている。全部食べても良いのです。 蛇は女に言う。園のどんな木からも食べてはいけないと神様は言われたのか。
全部の木の実は食べてもいいのです。しかし、園の中央の木の果実だけは食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないからと神様はおっしゃいました。

蛇は言います。中央のその果実には神様の秘密があるのだ。それを食べると神様のように善悪を知る者となるのだ。その果実を食べても、決して死ぬことはない。その果実を見に行こう。

女は果実を見た。いかにもおいしそうだった。食べたくなってきた。取って食べた。一緒にいた男にも渡した。すると、二人は別の世界に入ったのです。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知ったのです。

二人は自由ではないことを知ったのです。やってはいけないことがある。それを超えたかった。神様によって自分たちは自由に生きていると思っていた。だから、何も心配することはなかった。しかし、知識のあるもの、経験のあるもの(蛇)が女にささやいたのです。あなたは自由ではない。

イエスは悪魔から誘惑を受けるため、荒れ野に行かれた。荒れ野は苦しみの世界、神様のいない世界です。40日間、そこで過ごすのです。この苦しみの、神様のいない40日間が四旬節の原型のようです。 イエスは完全な者ではないですか。なぜ、完全な者が悪魔に誘惑されるのですか。完全とは悪を超える力がある、悪を超える力が働くのです。完全な者は悪を超える力のうちに悪に打ち勝つ。しかし、イエスは悪の力を知らない。人の弱さに働く悪の力を知らない。悪の力に抑えられている人の苦しみを知らない。荒れ野で、イエスの心の中にある欲求の力を悪魔は刺激するのです。
空腹:食欲を刺激する。イエスよ、あなたは空腹を我慢しなくてもいい力がある。目の前の石にパンになれと命じたらどうだ。
苦しみのない神の子なんだろう:悪魔は聖なる都に入ることが出来る。神殿に入ることが出来る。悪魔はイエスを神殿の屋根の端に立たせて、言う。神の子なら飛び降りてみろ。天使たちがあなたを支えると書いてある。
繁栄をあげる、豊かな生活を約束する:悪魔はイエスに言う。もし、わたしにひれ伏したら、世の繁栄をみんな与えよう。

悪に打ち勝つ力は自分を超える力ではないかと思います。イエスは自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいと言われています。世の中の出来事を自分の出来事として受け入れ、自分を捨てた目で見るのです。
空腹:今は空腹を味わう時。食べ物を与えてくださる神様に感謝する時。食べることの出来ない人の苦しみを味わう時です。
神の子:欲求によって、世の中が苦しみの世界になっている。力があるから苦しみを超えることが出来る、あなたは自分の世界に生きているのですか。苦しみ、悲しみを背負って、見つめて、脱出するのではないですか。苦しみ、悲しみを悪の出来事として捨てて行くのではなく、その中に入って、それを超えて行くのです。人とつながり合って、支え合って生きるのです。
豊かさに何を求めますか。命の喜びではないですか。豊富なものがある。便利である。快い生活が出来る。喜ぶのはあなたとあなたの家族ではないですか。荒れ野は人が見えないことです。支えられていることが見えないことです。神様を見ようとしないことです。
四旬節:アダムとエバは自由になりたかった。欲求の自由を知ったのです。欲求の自由の世界が荒れ野です。力のある者の世界です。物の世界です。神様を求めない世界です。憐みがない、慈しみがない、穏やかさがない、優しさがない世界です。

わたしたちは荒れ野を造っている力に従っているのではないか、自分を見つめて行きたいと思います。


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