「四旬節第4主日)」(A年)説教
2017年3月26日・加藤 英雄師


 

  主はサムエルに言われました。ベツレヘムのエッサイのもとに行きなさい。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した。サムエルはエッサイのもとに行きます。7人の息子たちがサムエルの前を歩きます。どの若者の容姿、教養も素晴らしい。主は言われる。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。あなたの息子はこれだけですか。末っ子が残っていますが、今、羊の番をしています。その子を連れて来なさい。主は言われる。「立って彼に油を注ぎなさい。」その子、羊飼いをしていたダビデに油が注がれました。 ベツレヘムとは「パンの家」、そして、エッサイは「富」という意味だそうです。パンに富んでいる主人がいる。パンをたくさん持っている。パンによって生きる。神様のみ心がパンになる。神様のみ心を豊かに食べる。このパンを食べて心を作って行く。息子たちは大いにこのパンを食べている。そんなことを考えて楽しみました。

イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけた。弟子たちがイエスに尋ねます。この人が、生まれつき目が見えないのは誰が罪を犯したのですか。本人ですか。それとも、両親ですか。イエスはお答えになった。神の業がこの人に現れるためである。

生まれつき体が不自由である、精神が不自由である、それは神様の業、神様からの出来事です。神様がそのようになさった。
えっ、神様はその人を愛されなかったのですか。
いや、神様はその人を特に愛されたからではないでしょうか。

その人が自分の体が不自由だと知った時、母さん、父さんを恨むかもしれません。不自由な体を持っている自分を憎む、希望がない。暗い世界に入ってしまうのではないでしょうか。
父さん、母さん、なぜわたしをこんな風に生んだ。こんな体に生んだ。恨みを叫んでも、どうしようもないと知った時、神様を恨みます。わたしは何も出来ない。わたしには友人が出来ない。わたしには喜びが見えない。
不自由な体を与えることが神の業ですか。この不自由な体で、この人を不幸にするのが神の業ですか。

神様の業、神様のみ心をその人に知らせるのです。神様はその人と特につながるように選ばれました。神様は特にその人を呼び続けます。誰もあなたとつながらないと思ったなら、まことのつながりを持とうとしないと思ったなら、わたしを呼び求めなさい。わたしはあなたのわたしを呼ぶ声を待っているのです。

目の見えないあなたは、目が見えたなら一番に何が見たいですか。聞こえないあなたが、聞こえるようになったら、一番に何が聞きたいですか。口のきけないあなたは、口が聞けたら一番に何を、誰に語りたいですか。

社会の一員として社会を作って行く一人として働きたい。目の前にあるものを見たい。母、父、兄弟の顔を見たい。姿を見たい。
あなたは母さん、父さんの顔が見えない。悲しい、残念だと思っている。見える人は毎日、母さん、父さんの顔、姿を見ている。それはその人たちには珍しい事ではない。見える人は母さん、父さんの顔、姿に母さん、父さんであることを感じている。この顔、姿が本当の母さん、父さん。
あなたは今見えないから母さん、父さんの心を感じ取っている。その心が母さん、父さんだ。このぬくもりが母さん、父さんだ。母さん、父さんを恨んでいた時、母さん、父さんの心が見えなかった。神様を恨んでいた時、神様の心が見えなかった。あなたは、体の目は見えないけれど、心の目があるのです。心の目で母さん、父さんを見つめなさい。見える。心が響く。母さん、父さんの思いやり、温かさ、優しさ、あなたを愛している心があなたの心に響く。あなたは見える人以上に母さん、父さんにつながっている、結ばれている。もし、見えるようになったら、あなたは見えなくなってしまう。その時また、見えるようになりたいと言う。見えないものを見えるようになりたいと言う。
神様はあなたを見えない者として選んだ。それはあなたが神様と出会うため、見えない者が見えるようになるため、見える者が見えないことを知るためです。

目の見えない者、耳の聞こえない者、話せない者は不幸な者という思いをやめなさいと言われているようです。

イエスは盲目であった人に出会った。そして言う。あなたは人の子を信じるか。
あなたは命の尊さを語られました。病を癒されました。それは心の病を癒すためだと分かりました。あなたに光を見ます。いのちの力強さを見ます。あなたに奥深い憐れみの心を見ます。
自然を見る。人を見る。自分を見る。そして神様を見るのです。
見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。


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