日本二十六聖人殉教者祭      2003年2月2日 カトリック本所教会 
ミ サ の 説 教
   日本二十六聖人記念館・館長 結城 了悟 師(イ エ ズ ス 会)

マタイによる福音  (マタイ 28・16〜20)
  〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤにいき、
  イエスが指示しておかれた山に登った。
  そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
  イエスは、近寄って来て言われた。
  「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
   だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
   彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
   あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。
   わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」  


 説 教

 今のマタイ福音書のヵ所は短いものですが、何回も私たちは典礼のなかで聞いたことがあるでしょう。イエズス様のご昇天の祝い日、他の殉教者の祝い日、何回聞いても、本当に私たちは、この言葉に含まれている深い意味をつかまえているでしょうか。この短い言葉には、キリストの教えが全部含まれている。我々の使命が、全部含まれている。向こうに行った人が神から選ばれた人です。神から選ばれた人といえば、永遠から神が彼らを愛している。愛していたから招く。招いたから使命を与えて遣わす。その人々とはだれであったか。ここにも短い言葉でひとつの大切なところが教えられています。「疑う者もいた。」何回もイエス様が、弟子たちを叱った。「まだ信じないのか」すなわち、この言葉が教えているのは、ここに集められた人、十一人の弟子も、私たちも、弱い人間です。宣教を考える時には、まず第一に、私たちはそれを心におかなければならない。キリストは、自分の教会をつくるときには、天使たちを選ばなかった。弱い人間を選んだ。人間はみんな弱いです。人間を弱いものと強いものに区別するのは大きな間違いです。人間はみんな弱いです。ですから自分が強いと思って、神の招きに応えて手柄をたてると思ったら、間違いです。弱いものです。いつか落ちる。自分が弱いからと見て、何にも出来ないといえば、また間違いです。私たちが選ばれた時、弟子たちと同じように出来るのは、キリストが招いたから。キリストが、私と一緒に最後までいる。私にとって、この文章の一番美しい言葉が最後のところ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。弱くても、落ちても、キリストが私たちと一緒です。宣教といえば、ここから始まります。招く。遣わす。イエス様はその事もよく説明した。父が私を遣わしたように、私はあなた方を遣わす。イエス様と同じ使命です。イエス様と同じように、人間の救いのために呼ばれている、招かれている、遣わされている。これは、だれでも。
 宣教。自分の教えを伝えることではない。自分の夢を他の人に伝えることではない。キリストのみ言葉を伝える、イエス様を伝える。宣教には、時々、現代でも、いろいろな言葉が聞える。確かに、私たちは、教会は、聖霊の導きのもとにいつも進んでいく。宣教のやり方についても、聖霊が教会に働いて導く。ですから、現代は、まだキリストの教えを受けていない人も、もっと理解をもって見ていく。理解を持つのは大切です。イエス様は私たちを見て、同じ様に理解している。信じない弟子たち・・・。ですから、他人に対して理解、尊敬を持つのは、当然です。けれども、宣教は、ただ教えを伝えることではない。宣教は証しです。キリストの証し。ですから、言葉だけで教えれば、キリストの自分の生活で、証ししなければ、あまり結果がありません。証しする。けれど、証しするなら、同時に話さなければならない。教えなければならない。なぜですか。信仰は私たちに与えられた神の恵みです。自分が創ったものではないのです。自分の力で探して見つけたものではない。信仰は神の恵みです。小さい時、洗礼を受けた時、その恵みが授けられます。ちょうど、先月、イエス様の洗礼の祝い日に、教皇さま自身、バチカンのシスティーナ礼拝堂で、二十数名の赤ちゃんに洗礼を授けました。私は、あの式に与かりたかった。歳とった教皇さまが、泣いている赤ちゃんたち、一人ひとりに、そして、きれいに、そこで説明をした。後で、ここに蒔かれた信仰の種は、親、代父、代母が育てる義務がある。もう、種が蒔かれている。信仰の恵み。その恵みより素晴らしい恵みはない。神の愛です。すなわち、信仰を伝える時には、裏にある力が愛の力です。信仰と愛。私が自分の信仰を大切にするなら、兄弟を愛する。兄弟にそれを伝えないのが、愛に背くことです。相手を理解する、尊敬する。無理なことを言わない。けれども、自分が持っている信仰の宝物をその人に伝えないと、本当に愛していません。宣教は、愛と信仰のものです。ここで今日、同時に殉教者のこと、殉教者について、二十六聖人について、あとの話の時、詳しく言います。けれども、宣教と殉教、どんな関係がありますか。ひとつの言葉がそれを結ぶ。証し。むかし、日本の教会では、殉教者たちは、「ルカの福音」あるいは「使徒の宣教」から、イエス様が使った言葉、ギリシャ語で「マルティネス」と呼んでいる。マルティル、証し人。これは、イエス様が弟子たちに言ったこと。あなた方が私の証し人になる。マルティネスになる。それなら、宣教は証し。殉教は証し。同じです。ただ、その証しは、愛に従って命さえも捧げるところまでいくのが、今、殉教者といわれる。ですから、宣教と殉教とわけることが出来ないです。
 2年前だったと思います。日本のすべての司教様が、決められているローマへの訪問の時に、教皇さまが非常にきれいな話をした。残念ながらその話は、日本のカトリック新聞などに出ていない。ローマの新聞に出ている。あまり長くない。でも、その話には、教皇さまは、日本の教会について、三回ぐらい日本の殉教者について話しました。そして、その殉教者は、神父だけではなく、二十六聖人だけではなく、その教会の信徒の殉教の話です。後で、その信徒の証し、殉教のことと現代の教会との結びについて、簡単に話をしたいです。今はこれだけ。宣教と殉教、同じことです。殉教は愛の賜物です。これより大きな愛はないのです。「愛する者のために命を与える」。イエス様が完全な模範です。ある、四旬節だと思います。ミサの典礼のなかには、この言葉が出ていました。十字架の犠牲を記念するミサ聖祭は、すべての殉教の源である。イエス様はその十字架で何を証ししたか。人間に対する父の愛を証し、自分の父に対する愛の証し。これほど神が人間を、この世を愛している。自分の御子を与えるほどに。ごミサは、私たちが今から捧げるこの犠牲は、人間に対する父の愛です。父に対するイエス様の愛。我らに対するイエス様の愛。この祈りを捧げながら、私たちは弱い人間として、その愛に従って生きることが出来るように祈りましょう。


 


  日本二十六聖人殉教者祭  2003年2月2日 カトリック本所教会     
 講演 日本二十六聖人記念館・館長 結城 了悟 師 (イ エ ズ ス 会
)      

『日本二十六聖人から現代教会へのメッセージ』

司会者 それでは、時間になりました。結城神父様のご講演をお願いしたいと思います。
   結城神父様、お願いします。皆さん拍手をお願いします。

結城 了悟 師
 皆さん、こんにちは。聞えますか。
 ごミサが終わり、今からゆっくり、二十六聖人を見つめて、ミサの中の説教で話した、同じテーマのことです。本当に、この話のため、この教会から頼まれた題は、『日本二十六聖人から現代教会へのメッセージ』という非常に難しいテーマです。
 二十六聖人からのメッセージだったら、彼らから尋ねるほか無いです。この題を読んだ時に、私は、22年たっても忘れないひとつの瞬間を思い出した。教皇さまが長崎を訪れた2月25日のことでした。吹雪の中で朝のミサのあと、昼には教皇さまは、二十六聖人の記念碑の前にいらした。私たちは急いで雪をかたして、台座を置きました。教皇さまが入って、ゆっくり、ひざまずいて、彼の習慣である、頭を手に入れて祈りました。その後で、頭を上げて、ニコニコして自分の前にある二十六聖人の記念碑の、二十六人のことを見ていた。その時テレビも教皇さまの顔と目をずっと撮っていた。非常に印象的だった。あの時、二十六聖人と教皇さまとの対話が、どんなことがあったでしょうか。教皇さまの言葉です。「この殉教者の記念碑の前で祈りと反省の時を過ごしながら、私は、彼らの生涯における神の恵みの秘儀を深く味わい、彼らが私と全教会に語りかける言葉、数百年を経て今なお生きている彼らのメッセージを聞きたいと思っています。」ちょうど、今日私たちが、そのためにも集まっている。教皇さまが西坂にいらしたのは、ならうためでした。他の所に教えに行く。そこで殉教者から教えられるように。あれから教皇さまが、何回も殉教者について話している。その話、あるいは文章で、教えたことのひとつは、もう何年も前、列福列聖のための規則を直して、その条文に、このことを言っています。殉教者たちのことを考えるのは、遠く天国で私たちのために祈っているということではないのです。彼らは私たちの道連れです。一緒に歩いてくれる。導いている。私は、何回もそれを感じた。殉教者は、歩いて、長崎への、彼らの長い十字架の道行きで私たちに話している。ここで、暖かいところに静かに座って、あの辛い道を歩いた彼らの話を、彼らからメッセージを聞かなければならない。
 私たちは、二十六聖人というと、二十六人を一つのものとして考える。これはいいことです。後で説明します。同時に、彼らが一人ひとり自分の別々な道を歩んでいく、それもいいです。「虹」と同じです。白い光は、雨粒を通して、あるいは人間の涙を映して虹になる。ここで二十六聖人は、二十六色の素晴らしい虹です。彼らは私たちに何を教えますか。
 たいてい、私たちは人間の癖で、きれいな所をとっている。いいものを教えるけれども、あまり厳しく私たちから要求しないことのほうを選ぶ。例えば・・・おそらく二十六聖人の中で、一番人気があるのは、小さなルドビコ茨木です。ある日、私は記念館の中をゆっくりと歩いていた。小さな子供を連れて若い夫婦が入って来た。その態度などで信者ではなかった。忙しそうにあちこち見て探している。でも、見つからないので、とうとう、お父さんが遠慮しながら「すみません。ここにピコピコ様はいますか」私は突然尋ねられて、「ここには、そんな人はいないです」。お父さんはがっかりして帰ろうとした時、奥さんが「すみません。この子供が保育園でピコピコ様の話を聞いて、どうしてもここにいると言って、私たちを引っ張って来ました。」それは素晴らしい。小さな女の子がお父さんお母さんを引っ張って・・・「ああ、分かった。ルドビコ様でしょう。ここに絵がある。すぐに見に行って。」そこにあったルドビコ様の小さな御絵を子供に渡して・・・うれしそうな顔で、三人、手を握って資料館をあとにした。こういう光景は何回も現在の見学者のなかにみられます。何か今の社会の問題で、九州のある小学校の先生が、子供たちの教育に足らないことがあるといって、西坂にいらっしゃる。前から準備なさって来る。子供たちが、五名ずつ、ノートと鉛筆を持って、資料館に来て、ノートに書いている。何を書いているのかわからない。時には、机が無いから資料館の床に座ってノートに書いている。質問もする。そして、話を聞いたら、カトリックやプロテスタントの学校ではなく、ある田舎の学校でした。教会が無いところ。後日、レポート、手紙が来ます。たいてい、一番書かれているのは、「私たちと同じように子供が信仰のために命を捧げたことに感心します。」子供たちはそういう印象を受ける。大人もルドビコのことが好きです。それは良いことです。舟越先生が素晴らしい絵を描く。永井隆先生は、きれいな、今もよく歌われる「ルドビコさま」の詩をつくられた。
 二十六聖人の中で、たぶん、一番辛い十字架の道を歩いたのは、聖ペトロ・バプチスタだと思います。ごミサの時に言った東彼杵から、夜、巡礼が始まった。長崎のシスターは偉い。午後2時から朝9時まで、ずっと、時々小雪が降っても歩いてくる。西坂の教会に入るときには、足を、もう、引っぱらないと歩けない位です。その巡礼が始まる、東彼杵の浜には立派な記念碑がある。大抵、記念碑は、二つの名前がある。ここで二十六聖人が乗船して大村湾を渡った。あとで、反対側に着く所には、二十六聖人の上陸記念碑がある。二十六聖人の道は、小さな「スペインのサンチアゴへの道」のように段々になっていく。歩く人のお陰で。スペイン人の詩人がいる。アントニオ・マチアド。短いきれいな詩を書いた。「旅人よ、道が無い。歩いてつくられる。」すなわち、最初の道は、どんな所でも道が無い所。一人が試しに行く、そしてもう一人、さらにもう一人と続いていき、道が出来上がる。二十六聖人の道。その記念碑にはもうひとつの名前がある。聖ペトロ・バプチスタの涙の記念碑。世界には男の涙に捧げられた記念碑があるでしょうか。たぶんこれだけです。聖ペトロ・バプチスタが泣いた所。ちょうど、佐賀の武雄から彼杵に行く途中で、嬉野で降りて一休みした道端に、その時、ペトロ・バプチスタは、岩に腰を下ろして、段々悲しくなって泣いていたといいます。これは、フランシスコ会の記録に書いていない。残念です。ルイス・フロイスの記録に書いてある。なぜですか。私にとって、ペトロ・バプチスタの心、あの時一番きれいに示す場面です。泣いている。そして、番人の兵隊たち、執行人はそれを見て、「彼らは今まで張り切っていたが、死の時が近づくと怖くなっている。」と言っていた。ペトロ・バプチスタはもちろん、兵隊の方言が分からなかった。だけど、パウロ三木が聞いていて、ペトロ・バプチスタに知らせました。「神父様、泣かないでください。彼らが、私たちが死を恐れていると言っています。」偉い侍の息子であったパウロ三木は、それに耐えることが出来ない。ペトロ・バプチスタは、彼の通訳である聖ゴンザロ・ガルシアを呼んで、通訳、説明をしてもらった。「私は喜んでキリストのために命を捧げる。ただ、今の、この出来事のことを考えて、私が日本に来て、フランシスコ会の新しい宣教地を開き、教会を作る。貧しい人のために病院を建てた。彼らと一緒に楽しんでいる時、全部、崩れた。教会が壊された。病院が壊された。その結果、貧しい病人が路に出された。そのことを悲しんでいた。」そのペトロ・バプチスタのイメージを見れば、だれを想像することが出来ますか。一人、いる。オリーブのゲッセマネの園で道に倒れて泣いていたイエス様です。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22章42節)
イエズス様のご受難の、たぶん一番深い、一番苦しいものは、このオリーブの園のところです。その時、自分を待っていることも、そして自分の犠牲の意味も、すべての人間の罪を背負って、父の前に罪人の代表者のように出る。イエズス様が泣いた。ペトロ・バプチスタも。すなわち、一番完全に、イエズス様に似ている。人間の弱さと神の愛が、見事にその苦しみに見られる。十字架への道は、そのことです。殉教者は、一人ひとり、例えば、前に話したルドビコ茨木、涙が無いです。喜びばかり。彼杵から、もうひとりの殉教者、聖マルチノが書いた手紙に、ここで、小さなルドビコがみんなを驚かせるほど喜んでいる。なぜでしょうか。子供には問題はないのです。子供の問題は心だけ。神を愛して、神様のため全部を捧げる。この喜びでほかのことを考えないです。ルドビコのような心に、子供を育てるのは良いと思います。ご存じの通り、このように喜んでずっと京都から・・・これは古い信者だったからでしょうか、いいえ、ルドビコが捕らえられた時、1ヵ月前に洗礼を受けたところでした。何故でしょうか。茨木には3人の兄弟がいた。レオ烏丸・茨木、パウロ茨木と未信者の兄弟もいた。その未信者の子供が、レオ烏丸が頼んで、フランシスコ会の教会で育てられるように、そこで信者になって、殉教の2ヵ月前に洗礼を受けた新しい信者です。また、ルドビコについて記録が、これはフランシスコ会の記録で、勉強の成績はそれ程よくなかった。けれど、非常に明るい性格でした。ですから、修道院では炊事場で手伝っていた。良いです。心が大切です。そして、この子供が、みんなと一緒に唐津に着いた時には、向こうに、長崎奉行の弟、寺沢半三郎が迎えに出て、みんなを引き受ける。半三郎が、ある記録には残酷な人とありますが、全くそうではない。彼が前に、長崎ではパウロ三木からキリスト教の教えを一部勉強した。パウロ三木の友だち。今、友だちを殺さなければならないと、泣いたそうです。ただ、また弱い人間です。殺したくない。けれど、秀吉の命令です。偉い侍が恐れている。ところが、秀吉から受けた知らせは二十四名。今ここには、二十六名。途中で捕らえられた人を自由にすればいいけれども、怖くなって、しない。ところが、小さなルドビコを見て、「この小さな子供を自由にすれば問題ない」と思って、ルドビコを呼んだ。「もしよければ、私の家にあなたを引き受ける。」やさしい人です。ルドビコが真面目に答える。「私は自分で決めません。ペトロ・バプチスタ神父に相談しなければ。」そして、ペトロ・バプチスタ神父は、もちろん、「あなたに命を与えたいなら受けてください。ただ、信仰を守るように。」と、公にこのことを付け加えたので、半三郎がまた怖くなった。「いいえ、信仰をやめなければならない。」その時ルドビコは、神父に相談しないで、偉い侍に、「そのような条件だったら天国に行くほうがましです」。小さな子供が侍より勇気があった。けれど、心配が無い。喜んでいる。最後まで。十字架の上から、パライソ、天国、イエズス、マリアと大喜びで叫んでいた。小さな子供とペトロ・バプチスタ、違う道です。ペトロ・バプチスタは責任者です。そして、その責任の中で、自分の道にも間違いがあった。ですから、あの東彼杵で迎えにきたロドリゲス神父に出会って、お互いに赦しを願った。ペトロ・バプチスタは、いろいろな、たぶん、間違ったことをしたから、司教様からも赦しを、私は正しいことを行っていたと思った。司教様もそうであった。でも、ぶつかった。死ぬ前に心をきれいに、お互いに赦しを。それも大切なことです。許しを頼むことを知らない人は、駄目です。ペトロ・バプチスタは、その重みを感じている。とうとう、全部片付ける。他の手紙には、信者からサンフェリペ号の船の問題で金を借りて取り扱うため、いま払うことが出来ない。そこで、フィリピンまで手紙を送った。「いま私は払うことが出来ない。あの人に払って欲しい。」いろいろな問題が重なる、責任者。最後にすべての問題を片付けて、十字架の上でペトロ・バプチスタは何も言わない。静かに祈る。傍にいた長崎の少年アントニオが「神父様、何を歌いましょうか」と言っても、返事もしない。深く祈っていた。これは、ひとつの道です。自分の行いの責任を取る、その苦しみに耐える。同時に全部ささげる。
 トマス小崎。私はこの子供のほうが好きです。トマスは14歳。あの時、貧しい家族の子供が働く。伊勢出身。家族が出稼ぎで京都にいた。もう、前からの信者です。家族がみんな信者です。フランシスコ会の教会がつくられる時、彼もお父さんの手伝いで働いていたので、フランシスコ会のリバデネイラ神父に、お父さんから頼んで、修道院で育てられるため、お父さんが喜んで、お父さんも立派です。長男を修道院に与えた。けれども、あの時、14歳の子供が、もう、よく知っている。そして、あの道の苦しみの時、子供が大人になった。それですから、行く途中で、三原城では、自分の心の悩みを手紙に打ち明けた。お母さんへの別れの手紙。素晴らしい手紙です。大人になった子供が、お母さんに導きを与える。「お母さん、泣かないでください。お父さんと私は、あなたより一歩先に天国に行くだけです。そして、もし、人から迷惑などがあれば許して下さい。」簡単な言葉のように見える。そうではない。トマスは知っている。死刑にされた人の妻や子供は、奴隷として売ってもいい。何してもいい。自分の母、自分の弟がそのようになると知っている。知っているけれども、「許してください。」いま、三原城は存在しない。その城の石垣の大部分は、鉄道を造る時に使われた。新幹線の駅の裏に、チョッと本丸の台座が残る。現在、小さなものが建てられた。が、もうひとつの櫓の跡が残る。港櫓。数年前まで港があった。けれど今は埋め立てられて小さな公園が出来た。そして、国の文化財になった櫓の台座が、きれいに残っている。その台座の前の小さな庭に、トマス小崎の記念碑が出来あがった。少年の等身大のブロンズ像なので、あまり高くない。ブロンズ像の子供が手紙を書いている。そして、下に説明がある。その手紙の最後の言葉。「天国でお待ちしています。」あの時代、三原城の城主であった、有名な毛利輝元の子供、吉川氏、もうだれも知らない。像がない。記念碑が無い。けれど、一晩だけ、そのお城の牢屋で夜を過ごした少年が、今、公園を通る人々みんなに、天国への道を教えている。トマス小崎は、殉教のところで、大人になった少年です。そして、その優しい心。自分の心の悩み、お母さんや弟たちの心配をしている。「許して下さい」と。
 もうひとりの殉教者、パウロ三木。
 日本では、二十六人の中で一番代表的な殉教者かもしれない。ご存じの通り、彼は織田信長の家臣、三木判太夫。三木判太夫は飯盛城で最初に洗礼を受けた人々のひとり、イルマン・ロレンソから洗礼を受けた。勇ましい武士で、信長のため、秀吉のために戦って、とうとう、秀吉の九州征伐の時、大分で戦死した。立派な信者です。おそらく、長男が父の後を継いで、その後の家族が、今も四国に住んでいる。パウロ三木は、次男か三男か分からない。安土セミナリヨの1期生の弟子。信長をよく知っていた。信長がさみしい時には、セミナリヨに行って生徒たちの歌を静かに聞いていたそうです。向こうから、高槻に、みんなと一緒に行く。秀吉は、高槻のセミナリヨを大坂城にも建てられるようにと頼んで、パウロ三木も行った。秀吉もよく知っている。そこから卒業して、臼杵にあったイエズス会の修練院に入った。大友宗麟の前。いろいろな偉い人に会った。禁教令の時、有馬のセミナリヨに行って、そこで修練期が終わって誓願を立てた。だんだん、彼が雄弁家として知られるようになった。背が低い。けれども、説教するのは上手です。彼についての記録では、ひとつの悪いところが書いてあるようですが、それほど悪いことではないです。ラテン語の勉強がいやになって、今は、管区長さまを手伝っている。そして、雄弁家だから、大坂の教会に送られた。熱心に活躍する。ひとつの例が挙げられる。ある日、死刑に引っぱられる悪人を見て、自分が後にいって、兵隊の中に入って、一緒に歩いて、この人に神のことを話して、死刑の前に洗礼を受けるように勧めた。この様なタイプです。彼が、大坂の宣教師が隠れていた家にいた。そこに二人の神父がいた。秀吉が知らなかった。知っていれば大変な問題です。それですから、二十六聖人が捕らえられた時、大坂の奉行もそこに兵隊を送った。その時パウロ三木は、仲間、ディエゴ喜斉とヨハネ五島と打ち合わせて、家の主人であったアンドレ小笠原と話して、絶対に神父がいると言ってはいけない、ここにいるのは私たちだけですと言って、彼らが神父を救うために身代わりになった。聖コルベが、殉教、殺されたのは、家族がある人の身代わりになった。パウロ三木たちも同じことをした。神父と教会からその大きな危険を避けるため、自分たちが身代わりに出た。その時からパウロ三木が張り切っている。京都の牢屋でも、夜通し説教した。そして、京都から出て長崎までの一ヵ月の道に、ちょうど最後の日、長崎に入った時、迎えに出た友達に、このことばを言った。「非常にうれしいです。この長い道中、一日も説教を止めなかった。手は縛られている。しかし、心は自由です。説教をするという自分の使命を、最後まで果たすことが出来た。」説教をする、素晴らしい使命です。辛い使命です。イエス様のことを見てください。ある時には説教をする。何千人も聞いている。喜んでいる。後で、カファルナウムでのいのちのパンの説教(ヨハネ6章22節〜66節)では、一般の群集だけではなく、弟子の数人が離れた。この言葉は信じ難い。イエス様は、辛かったでしょう。ご聖体について初めて話した時、自分が育てている人も受け入れない。辛いです。辛いことであっても、素晴らしいことであっても、本当に、人間の心を満たす使命です。パウロ三木は、それを感じていた。そして最期までそれを果たした。十字架の上から、パウロ三木の最期の説教は素晴らしいものです。短いけれども。
 二十六聖人の記念碑としてブロンズ像が並んでいる。舟越保武先生が作った素晴らしい像が。みんな天を仰いで足が段々あがっていくように被昇天の歌をうたっている。パウロ三木は別です。手を伸ばして、群集に向かって話しているようです。西坂で何回も私はこのことを話した。ある人が尋ねる。「他の人と違いますね。」「それは、説教していたからです。」「どんな説教ですか?」私はその質問を待っている。彼の十字架の前に、捨て札に豊臣秀吉が命じた死刑の宣告が書いてあった。「これらの者がルソンから来て、禁じられた教えを述べましたから、殺される。もし、だれかがその教えを受ければ、家族とともに殺される。」「殺す」という秀吉の言葉が、死の文化のメッセージです。パウロ三木は十字架から答えて、「皆さん、聞いてください。私はルソンから来た者ではない。日本人です。侍の子供の心もそこに響いているかも知れない。自分は日本人です。本当の裁判官がいれば、これで自由にされるはずです。ルソンから来たから殺す。ルソンから来ていません」。でも、パウロ三木はそれを目指していない。「私が殺されるのは、悪いことをしたからでは無いのです。ただキリストの教えを述べたから、そして、その教えに従って、太閤さまも役人さまも皆、心から赦します。彼らが救われることを望んでいる。赦します。」ちょうど、先月、お正月の時、ヨハネ・パウロ二世は、毎年と同じように、バチカンに代表者を送っているすべての国の大使に話をした。短い話でした。けれど、その話には、強く、あることばを言った。
 死に、いいえ。戦争に、いいえ。平和に、はい。いのちに、はい。素晴らしい宣教。いま戦争のことを考えている人、平和を乱す人、平和、いのち。平和といのち、死と戦争。そこに壁の様に、ひとつの言葉が立っている。赦し。
 イエス様の時代のイスラエルの文化は、赦しの文化ではなかった。バビロニアの法典は「目には目を」です。すなわち、復讐に限度を設けているが、復讐にはかわりありません。16世紀の日本の文化はもっとひどかった。私は、記念碑の前で何回もこれを人に尋ねる。日本の四十七士、赤穂の浪人たち。今でも毎年、劇が上演され、番組が特別にある。なぜ有名でしょうか。仇を討ったからです。日本の文化はそれを大切にする。今でも、人の死刑の宣告が出るとき、被害者遺族は、これで亡くなった人が安心するという。亡くなった人はそれを望んではない。イエス様は十字架上から、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」とおっしゃる。十字架の上からパウロ三木たちも、「赦します。」と宣言する。赦しと言う言葉が、あの時代には、あまり知られていない、美しい花の香りのように、その十字架から全世界に広がった。今の時代にも。何故、まだ死刑が日本で続くのでしょう。先進国といわれる国の中で、死刑制度があるのは、アメリカと日本だけです。なぜでしょうか。その文化の重みです。悪いことをした人に罰を与えるのは復讐のためではない。復讐のためなら、もうひとつの悪いおこないです。罰の目的は、直すことです。死刑は直さない。赦す。導く。イエス様の言葉でしょう。私は罪人の死を望まないで彼が回心して生きることを望む。二十六聖人が、現代の21世紀のため、私たちにこの大切なことを繰り返している。本当に赦す。二十六聖人だけではなく、日本の数多くの殉教者が、ここで素晴らしい模範を残した。米沢の殉教者でも、殉教の前の夜、甘糟右衛門という偉い侍があくる日に殺されるその夜、ほかの侍が、徳利と肴を持ってくる。「明日、私は貴方の首を斬らなければならない。まぁ、一緒に飲みましょう。」一緒に、まるで友達のように、殺される人と殺す人とお酒を飲み交わした。これは素晴らしい。これは善。赦す。今朝、説教でいった教皇さまの、司教団へのメッセージは、殉教者について三回くらい話している。その中で、英雄的なレベルまでのキリスト教的な徳を持つ信徒たちというのは、日本の教会では、新しいことではありません。あなた方の殉教者の名簿には、信徒たちの名前が目立ち、長い迫害の間、ひとつの世代から次の世代に、熱烈な信仰を伝えたのは、信徒たちでした。教皇さまが、よいまとめをしてくれました。
 現代の信者の中で亡くなられた人、評判が、ますます徳の者として高くなっているのは、原爆で被爆された、有名なパウロ永井隆先生です。彼は素晴らしい信者です。いま私は、偶然に、自分の手に入った、永井先生が亡くなる数ヵ月前に、最後の仕事をした、このような十字架の道行きの絵を書いた。亡くなった時、浦上教会の主任司祭に与えられた。そして、あの時まだ天主堂が建てられていなかったから、仮の聖堂に置かれた。けれども、新しい大きな天主堂を建てると、小さな絵は、もう見えなくなります。ですから、片付けられた。ちょうどその後、平戸の紐差教会の巡回教会である木ヶ津教会から頼まれて、そこの主任司祭に送られた。今もそこに飾っている。去年の秋、長崎で天主堂についての展覧会が行なわれ、その時にも出展された。私は初めてそれを見て、これは宝物です。もう、あの小さな教会で、湿気などで駄目になっている。和紙のビジョンを一枚一枚見ていくと、もう、書く手が震えている。縁の線が曲がる。色が縁を越える。永井先生は、仰向けに寝て、一つひとつ、夜、書いていた。今、出来ればそれを本にしたいです。それをするために、永井博士の本と、それを読んでいます。いろいろと教皇さまの言葉を裏付けるものがある。永井博士に信仰の教えを与えたのはだれか。プチジャン神父、外国人の神父。最後に、まだ、彼が無神論者で学生の時、最初のメッセージを与えたのは、死んでいるお母さんでした。彼がきれいに書いている。倒れて、ベッドに横たわっているお母さんの所に駆けつけても、もう、話さない。けれど、最期の目が彼にメッセージを伝えた。魂がある。母の魂が、いつも自分の傍にいると、彼は感じた。そこで、彼の回心の道が始まる。死んでいる母の素晴らしいメッセージです。後で、彼が下宿していたところが、ずっと、切支丹時代から、浦上の「教え方」の家族の子孫です。もう、何世代もずっと切支丹時代から、そこまで来た。明治時代にも、牢屋に入れられた。そこで、部屋を借りて、永井博士が勉強をしていた。隣の部屋で彼らが祈っていると、聞いていた。彼のために祈っていたとは知らなかった。そしてだんだんと親しくなる。はじめに、自分が浦上に行く行列など、チョッと軽蔑しながら見ていた。けれど、だんだん、変わる。そして、その家族の話を聞いて、とうとう、洗礼を受けることになった。洗礼を授けたのは、ペトロ・森山神父。ペトロ森山神父は、津和野で拷問された森山仁三郎の長男です。これも、永井先生の、最後に書いた本。彼が死んだとき、まだ発行されていなかった書「乙女峠・津和野の殉教者」です。そこで、その話が出る。森山勇次郎がいじめられて、十字架に縛られて、とうとう、死にました。死ぬ前に兄、仁三郎に言った。「兄さん、あなたは長崎に帰って結婚する。子供が一人、司祭になるよ。」おそらく、あの少年が司祭になりたかった。森山が、かえっても貧しい生活でした。畑で働く。金を借りて、けれど、長男に神学を勉学させた。その長男が永井博士に洗礼を授けた。ですから、永井博士の信仰は、ずっとキリシタン時代からのものです。彼が書いた本の中で、私はこの所を見つけた。家に帰って、焼け跡です。焼け跡の中で探して、奥さん(森山緑)の家族から伝えられた、キリシタン時代から伝えられた十字架の跡を見つけた。木が焼けてしまった、ブロンズ像が残っている。いま探している。どこに行ったか分からないのです。宝物です。彼がこのように話をまとめる。「すべてを失ったが、この十字架が残った。」そして、数日後、島根県の従兄弟から、百円が送られてきた。百円といえば、その当時は、彼の大学の先生の月給の金額であった。けれども、二、三日後、収容所から帰ったポーランド人の聖母の騎士の修道士が彼の家に、いま、修道院を建て直す。永井博士は、自分の全財産であるはずの、あの百円を修道士に与えた。数日後、修道士から、聖母マリアの像と聖書を貰った。このように、話がまとまる。この聖書と聖母マリア。家の柱には十字架がある。他はいらない。世界で一番、大きな金持ちです。これは、この人の信仰です。その信仰が、信徒から伝えられていた。教皇さまの言葉、確か、そうだった。
 説教するパウロ三木。赦しを与えるパウロ三木。
 もうひとりの殉教者、二十六人全員の話をする時間がありませんけれども、レオ烏丸。レオ烏丸あるいは茨木とも言われています。若い時にはお坊さんだった。家族が尾張の国にいます。けれども、いつのことかイエズス会の修道士に出会って信者になった。良い信者に。あとで京都に移る。出稼ぎに。そこで、フランシスコ会がきた時、手伝う人がいないから、自分が土地を手に入れ、建物をたてるなど、いちばん手伝った。そして、向こうで作られた、小さな病院が二つあった。レオは、宣教師の手伝いのかたわらに病院で働く。貧しい病院。彼らのベッド、道具など汚れてしまう。あの場所は、京都妙満寺あと。堀川。今は堀川が見えない。道路の下に流れている。あの時は開いていた。その流れが見えた。レオ烏丸は、その流れをつかって、病院から道具や寝具などを持ってきて、そこで洗っていたそうです。信徒のリーダーでした。要理を教える。日本に着いたばかりのフランシスコ会士たちは、日本語が出来なかった。だから、神父がやる仕事もやる。ずっと、パウロ三木と同じ様に、道で説教をした。信徒の活躍。
 殉教者は私たちにどのようなメッセージを与えるか。一人ひとり、自分の徳、自分の状態でその使命を果たす。はじめに言ったように、もう一度まとめます。「虹」の二十六の色が一緒になって白い色になる。たいてい教会のイメージを、私たちは、よく考えないけれども、そのグループには、二十六人の中には、スペインから4名、メキシコから1名、インド、ポルトガル、ゴアから1名、長崎の少年アントニオは、お母さんが長崎の人、お父さんは中国人の大工さんでした。すなわち、ヨーロッパ、アジア、アメリカと皆、代表されている。けれども、彼らはひとつです。同じ信仰、同じ心。使命は違う。神父から小さい子供まで。お医者さんもいる。薬屋さんもいる。もと武士の人がいる。殉教者として心が同じ。キリストのために命を捧げる。これは本当の教会の姿です。聖パウロが言ったでしょう。ユダヤ人でもない、ギリシャ人でもない、自由民。奴隷が無い。みんなキリストにおいてひとつ。二十一世紀の日本のため、これは私たちに任された大きな宿題です。この日本の教会を、そのようなものにすること。いろいろな道があって、みんなキリストの愛によって結ばれる、これが大事です。争う世界の中で、赦し、兄弟愛を教え、すべてを越えてキリストを愛して、キリストを伝えることです。
 もう、だいぶ時間が過ぎています。二十六聖人。毎年、私たちの所に戻る。今、30年ぐらい前から、神戸から始まった「長崎への道」という運動がある。いっぺんに京都から長崎まで歩ける人は少ない、時間が無いですから、ぽつぽつ歩く人がいる。時には、10年間ぐらいかかった。今は、どのぐらいか知りませんが、最初の10年間には、歩くだけで、三十名以上の大人がキリスト信者になった。
殉教者のことを考えて彼らの道を歩む。前に、教皇さまの言葉をいいました。殉教者は旅の道連れです。我々の毎日の生活には、殉教者と一緒に、信仰の喜びがあれば、彼らとともに最後のうたを歌おう。「すべての民よ、神をほめたたえよう。」さみしいことがあれば、悲しいことがあれば、ペトロ・バプチスタのように涙を流してもいいけれども、心の中でその涙も神に捧げる。殉教者とともに生きる。彼らの恵みにすがって。彼らの取り次ぎは、私たちに21世紀の日本の教会をつくるための道を教えると思います。
簡単ですが、これで終わらせていただきます。

司会者
どうぞ大きな拍手をお願い致します。神父様ありがとうございました。主任司祭の吉川神父からお話しをお願い致します。

結城 了悟 師
 昨日来た時に、神父様にどんなお土産を持って行きましょうかと…。長崎のカステラ。あまり意味が無いでしょう。時には、私の所に来る人が、カステラを駅で買ってくる。〈笑〉4年前、二十六聖人の四百年祭があった。そして、長崎教区がどんな記念品を、あの時、十字架の道行きと同じように、永井博士とその弟、永井はじめさんが書いた、子供のための二十六聖人についての紙芝居、これは宝物です。浦上教会は、これを印刷しました。たぶんだれかがあの時、買ったかも知れない。あの時、私は数冊を買っておいた。ちょうどこれは、一番良いです。子供たちに、二十六聖人の話を。絵がきれいです。あとで神父様に頼んで、見てください。非常にきれいで、デリケートです。永井博士は、本当に絵が上手です。十字架の道であっても、その殉教者。そして彼の信仰は、去年、急逝された長崎大司教、島本司教様が、永井博士は、二十六聖人に基づいて育てられた。ですから、この本は、キリシタン時代から永井博士と現代までの流れです。

   

   日本二十六聖人殉教者祭 2003年2月2日  カトリック本所教会
        聖体賛美式      説教  吉川 敦 師 礼拝


聖書朗読  ルカ22・39~44
  イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行くと、
 弟子たちもついて来た。
 いつもの場所にくると、イエスは弟子たちに、
 「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言った。
 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈った。
 「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取りのけてください。
 でも、わたしの望みではなく、あなたの意志のままにおこなってください」
 すると、天使が天からあらわれて、イエスを力づけた。
 イエスは苦しみもだえ、ますます熱心に祈った。
 汗が血のしたたるように地面に落ちた。     
 
黙 想 み言葉をおもいながら、黙想いたしましょう。

感謝のことば
 皆さん、待ちに待った恒例の本所教会日本二十六聖人殉教者祭は、いよいよ終わりに近づいています。お越しくださった皆様に感謝するとともに、神様のお導きを感じています。皆さんそれぞれが、熱き思いを持ってここに集まりました。今日、お体のすぐれない結城神父様が、はるばる長崎から、巡礼の思いでこちらにいらしてくださったことを、ともに感謝したいと思います。神父様からも皆さんに対して、心から感謝するとおっしゃって、先程お帰りになられました。先週、夜お電話をしたときには、お風邪を召されていて、もう、お休みになっておりまして、大変心配しておりました。神父様のお顔を見るまでは、もしかしたらと、そんな思いでございました。しかし、こうして、全て滞りなく終わろうとしている今に当たって、あらためて、皆さまの祈りの力、そしてまた、それを祝福してくださっている神様の思いを、体で実感しているものでございます。
 ちょうど、先程、結城神父様は、講演の中で、ルカ22章39節から44節の中心であります、「父よ、お望みなら、この杯をわたしから取りのけてください。でも、わたしの望みではなく、あなたの意志のままにおこなってください」この聖句を引用されておられました。私は、たいへん感動しています。
 なぜなら、この式次第は、今日の神父様のお話とはまったく関係なく刷られたものでございます。私もこのヵ所は大好きで、選ばせて頂いておりますが、この、「わたしの望みではなく、あなたの意志のままにおこなってください」という意味は、今日、ご列席の皆さんの明日の人生の歩みを照らす光なのですね。私たちは、ああしたい、こうしたいと常に思っております。それは、正しいことであります。しかし、半分の正しさだと私は思います。ああもしたい、こうもしたいと、したい通りにしていたら、人間は、破滅するかもしれません。「あなたの望みではなく、あの方の望みを」ということを、今日の合い言葉にしたいと思います。そして、何よりも、今日の、先程の、結城神父様のお話しをお聞きしておりまして、二十六聖人を率いられた聖ペトロ・バプチスタ神父のことを思いました。この方が担った十字架の重さは、本当に重いものであったわけでありますが、まさに、彼を支えたのは、「わたしの望みではなく、あなたの意志のままにおこなってください」だったのだと、私は、強く合点するのです。根拠は、と問われれば、こう答えたい。
 ペトロ・バプチスタ神父は、1597年2月5日に殉教したわけでありますが、1593年、たった4年前に、私の記憶違いで無ければ、マニラ総督府からの命令に従って日本にいらした。そして、殉教することになったわけです。ですから、日本の滞在は、わずか4年なのです。それにしては、何か、ずっと宣教してくださっていたのではないかと思うほどであります。でも、こういうことは、二十六聖人の列に加わった方々、一人ひとりについて、ある意味で言えるのですね。皆さんのほうがよくご存じだと思います。たまたまです。それが、神の望みであったと、十字架の今際の時が近づくにつれて、彼らはより深く気付いていったわけです。なぜなら、そうでなければ、決して、あの道程を生き抜くことは出来なかったと思います。耐え難い厳冬の中を、後手に縛られての引き回しは、とても生きられるものではないのです。しかし、それが、「私がしたいという望み」ではなく「神様の望み」であったからこそ、出来たのだと思います。「神様の望み」に、「私たちの望み」を合わせる時に、それが本当の私の道なのだと。これが、二十六聖人が私たちに語りかけている真のメッセージではないでしょうか。
 最後に、結城神父様がそのご著書のなかで紹介してくださった、ペトロ・バブチスチタの八つの手紙を読みますと、いかに彼が、この地上の身辺の細事に心を砕いていたかが分かります。「もう時間が無いので、もう書けません」という状況の中でも、今を生きることに、こまやかな指示を与えているのです.つまり、殉教ということは、小さな毎日の祈りと犠牲に基づく心配りに与えられた神様からの賜物なのですね。
 私たちはいま、小さいパンとなられたご聖体を前にして祈っています。私たちは、どこまでも謙遜に、「自分の望みではなく、あなたの意志のままに」とおっしゃって、血の汗を流された主イエス・キリストに倣おうと決心しています。二十六聖人たちはいま天上の祝福をいっぱいに受けて、私たちの今日からの信仰生活を、堅固なものにするよう取り次いでくださっています。ぜひ皆さん、勇気を鼓舞して、「新たな一歩」を踏み出そうではありませんか。ご縁があれば、私も来年いるかどうかわかりませんが、皆さんのご来場を頂いて深めていければ、これほど神様がお喜びになることはないでしょう。
 本日は、本当にありがとうございました。
 それでは、歴史を導かれるキリストのパンに心からの賛美と感謝をお捧げいたしましょう。


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