日本二十六聖人殉教者祭 2003年2月2日 カトリック本所教会
ミ サ の 説 教
日本二十六聖人記念館・館長 結城 了悟 師(イ エ ズ ス 会)
マタイによる福音 (マタイ 28・16〜20)
〔そのとき、〕十一人の弟子たちはガリラヤにいき、
イエスが指示しておかれた山に登った。
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる。」
説 教
今のマタイ福音書のヵ所は短いものですが、何回も私たちは典礼のなかで聞いたことがあるでしょう。イエズス様のご昇天の祝い日、他の殉教者の祝い日、何回聞いても、本当に私たちは、この言葉に含まれている深い意味をつかまえているでしょうか。この短い言葉には、キリストの教えが全部含まれている。我々の使命が、全部含まれている。向こうに行った人が神から選ばれた人です。神から選ばれた人といえば、永遠から神が彼らを愛している。愛していたから招く。招いたから使命を与えて遣わす。その人々とはだれであったか。ここにも短い言葉でひとつの大切なところが教えられています。「疑う者もいた。」何回もイエス様が、弟子たちを叱った。「まだ信じないのか」すなわち、この言葉が教えているのは、ここに集められた人、十一人の弟子も、私たちも、弱い人間です。宣教を考える時には、まず第一に、私たちはそれを心におかなければならない。キリストは、自分の教会をつくるときには、天使たちを選ばなかった。弱い人間を選んだ。人間はみんな弱いです。人間を弱いものと強いものに区別するのは大きな間違いです。人間はみんな弱いです。ですから自分が強いと思って、神の招きに応えて手柄をたてると思ったら、間違いです。弱いものです。いつか落ちる。自分が弱いからと見て、何にも出来ないといえば、また間違いです。私たちが選ばれた時、弟子たちと同じように出来るのは、キリストが招いたから。キリストが、私と一緒に最後までいる。私にとって、この文章の一番美しい言葉が最後のところ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」。弱くても、落ちても、キリストが私たちと一緒です。宣教といえば、ここから始まります。招く。遣わす。イエス様はその事もよく説明した。父が私を遣わしたように、私はあなた方を遣わす。イエス様と同じ使命です。イエス様と同じように、人間の救いのために呼ばれている、招かれている、遣わされている。これは、だれでも。
宣教。自分の教えを伝えることではない。自分の夢を他の人に伝えることではない。キリストのみ言葉を伝える、イエス様を伝える。宣教には、時々、現代でも、いろいろな言葉が聞える。確かに、私たちは、教会は、聖霊の導きのもとにいつも進んでいく。宣教のやり方についても、聖霊が教会に働いて導く。ですから、現代は、まだキリストの教えを受けていない人も、もっと理解をもって見ていく。理解を持つのは大切です。イエス様は私たちを見て、同じ様に理解している。信じない弟子たち・・・。ですから、他人に対して理解、尊敬を持つのは、当然です。けれども、宣教は、ただ教えを伝えることではない。宣教は証しです。キリストの証し。ですから、言葉だけで教えれば、キリストの自分の生活で、証ししなければ、あまり結果がありません。証しする。けれど、証しするなら、同時に話さなければならない。教えなければならない。なぜですか。信仰は私たちに与えられた神の恵みです。自分が創ったものではないのです。自分の力で探して見つけたものではない。信仰は神の恵みです。小さい時、洗礼を受けた時、その恵みが授けられます。ちょうど、先月、イエス様の洗礼の祝い日に、教皇さま自身、バチカンのシスティーナ礼拝堂で、二十数名の赤ちゃんに洗礼を授けました。私は、あの式に与かりたかった。歳とった教皇さまが、泣いている赤ちゃんたち、一人ひとりに、そして、きれいに、そこで説明をした。後で、ここに蒔かれた信仰の種は、親、代父、代母が育てる義務がある。もう、種が蒔かれている。信仰の恵み。その恵みより素晴らしい恵みはない。神の愛です。すなわち、信仰を伝える時には、裏にある力が愛の力です。信仰と愛。私が自分の信仰を大切にするなら、兄弟を愛する。兄弟にそれを伝えないのが、愛に背くことです。相手を理解する、尊敬する。無理なことを言わない。けれども、自分が持っている信仰の宝物をその人に伝えないと、本当に愛していません。宣教は、愛と信仰のものです。ここで今日、同時に殉教者のこと、殉教者について、二十六聖人について、あとの話の時、詳しく言います。けれども、宣教と殉教、どんな関係がありますか。ひとつの言葉がそれを結ぶ。証し。むかし、日本の教会では、殉教者たちは、「ルカの福音」あるいは「使徒の宣教」から、イエス様が使った言葉、ギリシャ語で「マルティネス」と呼んでいる。マルティル、証し人。これは、イエス様が弟子たちに言ったこと。あなた方が私の証し人になる。マルティネスになる。それなら、宣教は証し。殉教は証し。同じです。ただ、その証しは、愛に従って命さえも捧げるところまでいくのが、今、殉教者といわれる。ですから、宣教と殉教とわけることが出来ないです。
2年前だったと思います。日本のすべての司教様が、決められているローマへの訪問の時に、教皇さまが非常にきれいな話をした。残念ながらその話は、日本のカトリック新聞などに出ていない。ローマの新聞に出ている。あまり長くない。でも、その話には、教皇さまは、日本の教会について、三回ぐらい日本の殉教者について話しました。そして、その殉教者は、神父だけではなく、二十六聖人だけではなく、その教会の信徒の殉教の話です。後で、その信徒の証し、殉教のことと現代の教会との結びについて、簡単に話をしたいです。今はこれだけ。宣教と殉教、同じことです。殉教は愛の賜物です。これより大きな愛はないのです。「愛する者のために命を与える」。イエス様が完全な模範です。ある、四旬節だと思います。ミサの典礼のなかには、この言葉が出ていました。十字架の犠牲を記念するミサ聖祭は、すべての殉教の源である。イエス様はその十字架で何を証ししたか。人間に対する父の愛を証し、自分の父に対する愛の証し。これほど神が人間を、この世を愛している。自分の御子を与えるほどに。ごミサは、私たちが今から捧げるこの犠牲は、人間に対する父の愛です。父に対するイエス様の愛。我らに対するイエス様の愛。この祈りを捧げながら、私たちは弱い人間として、その愛に従って生きることが出来るように祈りましょう。
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