『日本二十六聖人に学ぶ現代の福音宣教』
2005年2月5日

日本二十六聖人殉教者祭 講演

高松教区  溝部 脩 司教

(司会者・氏家)
  お待たせいたしました。それでは、ただいまから講演会を始めさせていただきます。テーマは『日本二十六聖人に学ぶ現代の福音宣教』です。溝部脩司教様よろしくお願いいたします。

(溝部司教)
はじめに
  ただいま、ご紹介に与かりました溝部です。限られた時間ですので、たくさんの前置きは全部捨てまして、すぐに本題に入って、昔の殉教の出来事と今の教会ということも、考える材料を提供したいと思います。すなわち、過去の歴史を追って、昔、何があったかということだけに止まらない話にしていければ幸いだと思っております。
  まず、二十六聖人殉教の迫害の理由。これが一番目。そして二番目。こちらにもイエズス会の神父様がいらっしゃいましたけれど、イエズス会の神父たちの見解。そして三番目。教会の中での二つの見方の衝突。それから四番目に、殉教の皮肉。何か、殉教しなければならないような人ではない人が殉教して、殉教して当然の人が殉教しないという皮肉がある。その皮肉を申し上げたい。それから最後に。殉教の道程。聖体。十字架。この位の話をさせてください。盛りだくさんですので、要領よく進めていきたいと思っております。

二十六聖人殉教の迫害の理由
  では、第一番目ですね。迫害の理由。どうして迫害が起こって、どうして二十六人が殉教したのでしょうか。
  ここにおられる皆さんは、殉教者の熱心さとか、素晴らしさとか、そういうことを期待してこちらにおいでになったかも知れませんが、誠に申し訳ないことですが、私は、当時の教会のドロドロとした人間の争いがいっぱいあったこと、教会の中が分裂していたこと、こんな話をしたいと思います。
  現代の日本の教会の縮図でもありますので、考えるいい材料になるのではないかと思っています。もしも、それでつまずいて、これじゃ駄目だと思われる方があったら、帰ってから、これは駄目だという話を周りの人としてくだされば、それで良いと思います。すなわち、きれいな殉教談にしたくないこと、人間のドロドロとした中で、彼らが選んでいった死があるという話をしてまいります。よろしいでしょうか。
  まず、最初に、ルイス・フロイスというイエズス会の神父がいます。この神父が、『日本二十六聖人殉教記』という本というのか、記録を残してくれています。かなり長い記録です。その『日本二十六聖人殉教記』という記録をもとにしながら、私の話を展開していきます。
  その『日本二十六聖人殉教記』の中に、こういう文章があります。「おそらく迫害のひとつの原因は、わたしたちが説教して、洗礼を受けた多数の貴人と他の人々との改宗熱の騒動であったに違いない」。わたしたちというのは、イエズス会の神父たちで、私たちイエズス会の神父が洗礼を授けた人たちと、後から入って来た、すなわち、この97年の四年前、93年に入って来たフランシスコ会の神父たちが洗礼を授けた信者、あるいは、フランシスコ会の神父のところで勉強している信者が、仲違いをしたのが原因のひとつであると言うのです。 だから、二十六聖人が殉教したのは、教会の内部でけんかしたからだというのです。
  こんなことも書いてあります。「ついに、日本の習慣とはだいぶ違う修道者の振る舞いが、重立った貴人の都を管轄する奉行から悪意を持たれるようになった」。フランシスコ会の名誉を、私は傷付けたくはありません。ただ歴史的にはそうだったのですね。92年から93年にかけて、フランシスコ会の神父が、フィリピンのマニラ総督の大使として日本にやって来て、京都に住まいを持って、豊臣秀吉から京都に家を建てる許可をもらったのです。それを拡大解釈して、フランシスコ会の神父たちは、修道院も、御聖堂も、病院も建てて、そして、公然と説教をしたのです。
  ところが、1587年、それ以前の六年前ですが、豊臣秀吉は、『キリスト教禁教令』というものを発布しております。「すべての外国人宣教師は外に出て行きなさい」と。そこで、前にいたイエズス会の神父たちは、「なるべく為政者、秀吉とか政治をやっている人の気持ちを刺激しないこと、なるべく静かに宣教すること、大きな教会を建てたりしないこと、表に出て話をしないこと、出来るだけ自分の教会の信者たちの育成に力を入れることと、外に出る時には神父の服装をしないこと、みんな普通の服装をすること、信者の教育に当たること」という方針を立てていました。そこにフランシスコ会の神父がやって来ました。そして、表面は非常に平和のように見えたし、豊臣秀吉から家を建ててもいいという許可をもらったので、拡大解釈して、家を建てるだけでなく、修道院も、教会も、それから病院も建てたのです。しかも、公然と説教を始めたのですね。フロイス神父は、これが二十六聖人殉教の原因になったと言ったのです。
  原因の一つは、「あまりにも熱心な神父がいたこと」。もう一つは、「教会の中で信者が分裂したということ」。二つとも、考えて見ましたら教会の中のことですよね。秀吉が迫害して、外部の人がキリスト教を迫害したのではなくて、内部に問題があったからこんな迫害が起こったのだと言っているのです。いかが考えたらいいでしょうか。
  ちょうど、そういう時、1586年10月に、たまたまサン・フェリペ号という船が高知・土佐の浦戸港に難破して入ってきます。浦戸港の海底が浅いので船底が全部削られて沈んでしまい、しかもこの船には莫大な財産があったのです。この報告が豊臣秀吉のところまで行きました。秀吉は使いを送って、その使いを通して積み荷を全部没収してしまいました。これが外的な原因のひとつであると言うのですね。その外的な原因は、口実を設けるよい機会となっています。少し読ませてください。「彼らの中には、宗教を宣べるという口実で密偵として修道者を派遣したと付け加えた」あるいは、こういうふうに言います。「使節の名目で、ルソンから多数の修道者が次々と来日し、禁じていた教えを伝えて滞在したいと願っているのを見て、また他方でマニラに渡った日本人からも、カスィリア人の征服の情報の報告を受けたので、昔の疑惑が互いに深くなった」と。
  フロイス神父は、昔の疑惑が問題だったのだと言っています。昔の疑惑とは何でしょう。すなわち、初めに神父を日本に遣わす。その神父は、熱心に日本人をキリスト教にさせる。特に、大名たちをキリスト教にさせる。そして、皆が信じ込んで神父のいうことを聞くようになると、その段階でスペインは軍隊を送るだろう。そして、メキシコを征服し、それからフィリピンを征服したみたいに、日本をいつか征服するだろう。宣教師はスペインという大きな国が来るための密偵である。先遣隊である。それに引きずられている日本人がいる。こうして日本という国が、自分の独自性と独立を失うのだというのです。昔の疑惑というのはこんなことです。

イエズス会の神父たちの見解
  イエズス会は、はや三十年、四十年の日本宣教の経験を持っており、問題をかなり感じていました。1587年、追放令と同時に、なるべく為政者を刺激しないこと、なるべく隠れていること、公に出ないことを目標としていました。けれども、熱心に溢れたフランシスコ会の神父たちは、そういう事情がよく分かりませんでした。
  悪いことに、フランシスコ会の神父たちとイエズス会の神父たちは、日本と関係のない遠いヨーロッパで、見解の相異で争っていました。けんかというのは神学の論争でして恩寵ということが最大のことでした。イエズス会の神父たちは、どちらかといえば、自由、人間の自由意志というものをとても大事にしていました。今でもそうです。イエズス会は自由意志と、人間の尊厳、自由というものを非常に大事にしている、個性豊かな神父たちがいっぱいいます。その個性豊かなというのは、ときどき、あくどいということになるので、それがけんかのもとにもなるわけです。フランシスコ会の神父たちは、どちらかと言えば、アウグスチヌスなどの影響を受けて、恩寵、神の恵みが一番大事であるというアプローチをしていました。ここに二つの違いがあります。
  そういう論争があり、それが日本にまで持ち込まれたくないために、イエズス会の神父は、フランシスコ会の神父が来ないほうがいいということを決めていました。でも、フランシスコ会の神父たちは、そんなことを勝手に決められては困る、我々も宣教師だ、一生懸命に働こうと来日したのです。ヨーロッパでのけんか・仲違いをそのまま受け継いでいますので、以前から働いているイエズス会の神父たちの意見を聞いたり、彼らのやり方を学んだりすることが非常に少なかったということになります。
  実際、ペトロ・バプチスタという二十六聖人殉教者の中心になる神父は、マニラの大使として日本にやって来て、そして、93年には修道院、教会、それにサンタ・アナというらい病院さえも建て、更に長崎にも修道院を建ててしまいました。ところが、1587年の段階でキリスト教は禁教であり、教会は全部破却されるという掟があるのを気にしていませんでした。豊臣秀吉は、ポルトガルとマカオとの貿易があるので、神父が隠れているのは知っているけれども目をつぶっていました。ところが、フランシスコ会の神父は、目をつぶっているのは許しているのだと拡大解釈して、公然と宣教し、公然と洗礼を授けるということをしました。フロイス神父は、教会内部の宣教についての見方が違い、それについて争っていたことが、二十六聖人が殉教した第一の原因だと言っております。いま教会の中で争って分裂している教会があったら、そこが後で聖人になる可能性が十分にある教会だといってもいいでしょうかね。(笑)
  さらにフロイス神父は、第二の原因として次のように言っています。
  「仏教の勢力がこの頃とても強かった」。1587年の迫害令で、迫害令文を書いたのは、仏教のお坊さんたちでした。彼はこんなことを言っております。「修道者たちが遠慮なく公然と行動し、私たちの宣教の大きな情熱が目立ち、一般的に私たちの聖なる信仰の諸事に対して、関心を持ち、人々の間にそれを受け止める傾向が広まったので、この施薬院〔全崇〕というお坊さんは、その羨望していた悪魔に刺激され、胸中にいだいていた悪意を表に出し、奉行がスペイン人たちの財産を没収し、持ち返って、その時にキリシタンたちを王に告訴した」。秀吉の側近たちに仏教勢力が迫って、キリスト教は、まず宣教師を送って、それから、兵隊をも送る外国の宗教である。本当の日本の宗教は、仏教であり、神道だということを広く宣伝して、いつの間にか、秀吉の心をとらえて行ったと、フロイス神父が言っているのです。カトリック教会は、「あまりにも仏教勢力というものを馬鹿にした。仏教は日本の中に深く入っている宗教であるということの理解が少なかった」と考えていました。「キリスト教、十字架、と言っても、日本人の中に、深く、仏教的な宗教心があることに気づいていないところに、二十六聖人の殉教の原因があったのだ」と言っているのです。面白いでしょう。四百年前にこんな考察をしているのです。
  我々はキリスト教徒だと言っていますけれども、自分の心の奥の奥、あるいは、行動パターンを見たら仏教徒なのですね、実際は、仏教のことを葬式仏教だとか、冠婚葬祭の仏教であるとか、仏教はもう死んだも同然だとか言っていますが、本当は日本という土壌ということが全然分かっていないではないでしょうか。日本人の心情、奥底深くは仏教徒なのです。そういうものの見方を全部、根こそぎ無くして、キリスト教だ、十字架だという発想法が問題だったのだと言っているのです。だから、イエズス会の方針が、今からは仏教を決して悪く言わないで、もっと仏教との対話のほうに目覚めていこうという結論を出していました。ところが、新しく来た人たちは、その意味がなかなか分からなくて、キリスト教一本! というとらえ方をしたところに問題があったのだと言っているのですね。先ほど、どのような告訴をしたかということですが、彼らが絶えず吹き込んでいった考え方があるのです。「彼らは土地を発見し、教えを宣べて土地の人々を多数自分たちの仲間に引き入れ、後では兵隊が船でやって来る。土地の人の助けを得てその地を奪い取る。そのような方法で日本を奪おうと企んで、先にこれらの修道者を派遣して、そして今日彼らは宣教している」。それに従っているアホな日本人がいるということを主張します。これが第一点です。
  では第二点。これに対して、イエズス会の神父たちはどのように反応したのでしょう。彼らの見解は、どうしてもフランシスコ会の彼らとは合わないのですね、決して彼らをわるく言っている意味ではありませんので、フランシスコ会の神父さんたちはわるく思わないでください。歴史的にそういうことがあったといっているのです。でも、皮肉なことは、二十六聖人のほとんどがフランシスコ会なのです。三人を除いて、後は全部。三人だけがイエズス会だったのです。本当は、長く働いて、一番、教会に影響力が強かったイエズス会の神父が死んでも構わないはずなのですが、なぜかフランシスコ会の、日本の事情が分からない神父たちだけが殉教して、祭壇に上げられて、今、日本では一番大事な聖人になっているのです。皮肉ですね。とっても大きな皮肉です。
  イエズス会はこういうふうに言っています。「今まで私たちが王の怒りを受けないために、使っていた方法がある。すなわち、変装し──こんなクラージマンなんかつけずに、ネクタイで歩くと──未信者がいるところでは公に説教をしない。また、敬意を表わして私たちの家を目立つ場所に持たない」カテドラルみたいなものとか、麹町のようなでかい教会を建てない。浅草に小さな教会を建てるとかです。「王は私たちが表面的には自分の命令に背いていないことを知っていた」と、イエズス会の神父たちは知っていたのです。
  秀吉は禁教令を出しているけれども、ポルトガルと貿易がしたい。ポルトガルとの貿易が無いと国の経済は賄えないということを知っているので、一応、キリスト教は駄目だと言ったけれども、貿易はしたいと考えていました。だから、神父たちが目立って、余計なことをしない限りは目をつぶっていようと決めていました。むしろ、貿易を助けてくれるのだったら、神父たちがいても良いと思っているということなのですね。言い換えれば、あなたが望まなくとも私たちはあなたの領地に住み、あなたの命令に背いて、好きなようにするという態度を取らないでほしいということです。僕はキリスト教徒であり、唯一の救いを信じている。信じるか信じないかと人々に迫っていかなければいいのです。なるべく平和に、目をつぶっていようと思うけれど、あなたが目をつぶらせないように、十字架を持ってぐいぐいと迫ってくるなら、もう仕方がない。切ってしまうよ、ということになるのです。
  追放令があったとしても賢明に振る舞うことというのがイエズス会の方針なのでした。賢明に、なるべく為政者と繋がりを持つ、必要があったら少し贈り物も持っていったり、食事に招いて友達になる。こういう方式を取ろうと思いましたというのです。これが、皮肉なのです。こういう方法を取ったから殉教者が出なかった。こういう方法を取らなかった人が、みんな殉教者になったというのです。どう考えても、私の話は、皆さんの信心を高める話ではなさそうですね。でも、最後まで聞いて下さったら、信心が高まると思います。
  それから、フロイス神父は、イエズス会がどうして多くの殉教者を出さなかったのか、第二の原因として、次のように言っています。マルティンス司教が初めて日本に上陸した時、彼が一番最初にしたのは、京都に上って秀吉の訪問をしたことだということです。ゴアの総督の代理大使として、公式謁見をするということをしました。すなわち、きちんとした表敬訪問をとりながら、きちんとした教会の姿勢を秀吉の前に見せたということが大切なことだったと語っています。陰でこそこそやって、十字架だ、救いだなんていわず、ましてや、知らないうちに教会を建てるなどという、こういう馬鹿なことはしなかった。だから、死んで聖人の列に入らなかったということです。
  そして、第三の原因をこういうふうに言っております。イエズス会の神父たちは、この迫害の原因を、割合よく分かって分析したということです。分析するところによると、秀吉はポルトガル、マカオとの交易を、貿易を望んでいる。だから、むしろ彼の望みを満たすために、それを助けてあげるほうがいい。ある意味では、その時代の政治、その時代の空気に自分たちを任せよう、自分たちが中に入っていって、必要なところを自分が譲ってもいいから助けていこうと、こういう姿勢を持ったということです。大事なのは人間関係をスムーズにしながら、事態を克服していこう、このほうが大事だという見解を持っていました。皆さん、他人事のように聞いていますけれども、実際は教会の本当の問題なのです。いったん何かがあったときに、どういう立場を取るかです。私なんかも嫌というほどこれをよく見ています。
 
教会の中での二つの見方の衝突
  それでは、三つめです。この二つの見解の衝突があります。世界の端っこの日本の中での衝突です。サン・フェリペ号が漂着して荷物がとられる。そして、それを口実に、秀吉は、彼らはスペインの先兵であると言います。私の迫害令に反対して、公然と教会を建て、公然と説教をしている。私の命令を守らない。1587年の追放令、禁教令はそのまま活きているということを主張したのです。私が許したのは、マニラ総督の大使として家を建て、そこに住むことだけだった。それ以上のことを許したわけではないと、結果的にはこういうことになります。1587年の追放令の時に、秀吉はイエズス会に四つの詰問状を送っております。それに答えることを求めました。
  そのひとつは、なぜ熱心に宣教をするのか。なぜ強制してキリシタンにするのか。我々は仏教徒なのであり、我々は神道という。自分の宗教がある。何故あなたは外国から来て、外国の宗教で、信者を増やそうとするのか、これに答えろと迫ります。なぜ我々に外国の宗教が必要なのかということですね。
  二つめは、こういうことです。なぜ寺社仏閣を破壊し仏僧たちを追放するのか。なぜ融和しないのか。イエズス会の宣教師たちは、最初熱心に宣教するあまり、改宗したら仏壇を壊すとか、時には寺を壊してしまったり、そこを教会にしてしまうとかという、行き過ぎをしてしまったわけですね。こういうことを経験していって、お寺とか仏教を尊重しないといけないと分かっています。でも、秀吉は、仏教が入って来たときには、日本人の中にそんなに問題を起こさなかった。あなたがたが入って来ると、なぜそんなに問題を起こすのか。自分のほうで少し考えてみてくれということなのです。
  それから、三つめは、なぜ牛馬を食するのか。何で肉を食べるのかということ。
  四つめは、なぜ人身売買をするのか。特に九州のほうで、島原さん、あるいは、じゃがたらお春に代表される人たちが、バタビアとか、ルソンに送られていく女性たちのことです。秀吉はマニラのことも、メキシコのことも、だんだん分かってきています。スペインがメキシコを植民地化していったこと、すぐ近くのフィリピンを植民地化したことなど。分かっているのですね。ポルトガルは、自分たちは植民地化しない、ゴアもマカオも植民地化したわけじゃないというけれども、その町は城塞化しています。その町は治外法権の町にしていました。秀吉は全部分かっているのです。情報が入って来ていました。
  この中で、バリニャーノ神父は、大事なのは賢明さである、すべてにおいて賢明さというのが大事だと強調しております。だから、目立たないように活動すること、一人ひとりの信仰を深めること、神学生の養成に力を注ぐこと、日本の権威者と繋がりを持つこと、友情をもつこと、これらの方針を出します。でも、これがフランシスコ会の方式と衝突いたします。先ほども言いましたように、私は決してフランシスコ会をわるく言っているつもりは全然ありません。経験が無かったのだと思います。あまりにも経験が無いまま、自分たちが一番正しいと思うことをやってのけたということです。もう少し謙虚さがあって、お互いが今まで経験したことを聞きながらやっていれば、随分違ったのではないかなと、私は思うのです。でも、それは分からなかったから、しょうがないのですね。それから修道院を建てる許可が無いのに、家を建ててもいいと言ったら、修道院も建てる、ついでに教会も建てると。そして、荘厳な献堂式をしてしまうのです。それにしても、フランシスコ会には魅力があるのだと思います。貧しい者とか、重い皮膚病の人とか本当に困っている人を助けていくのです。フランシスコ会の周りに、貧しい信者たちが集まってきて洗礼を受けました。イエズス会の人たちから洗礼を受けた人たちも、その純粋さにひかれて、フランシスコ会のほうにやって来て話を聞いていました。フランシスコ会は第三会というものを作りますから、その第三会に入っていきます。前から働いていて、自分が洗礼を授けた信者が周りからいなくなったのだから、イエズス会も頭にきたのでしょう。そうすると、変な状況が教会の中に生まれてきてしまいます。
  この頃、決定されたイエズス会の方針に対して──1587年の、引っ込んで、外に出ない、表面では何もしないという方針──臆病だという噂がマニラで広まっていました。臆病であの人たちは何もしない。それから、政治家と繋がっていて俗っぽい。イエズス会の神父は俗っぽい、賄賂を取ったり、お金を作ったり、貿易をしたりと、神父らしからぬ神父たちだということですよね。二つのものの見方の違うというのは、今の神父たちを見ていても分かると思います。神父というのは、アクが非常に強いですからね。アクが強くて自分の主張を頑として譲らない面があるので、ことが難しくなります。
  例えば、京都で長く働いたオルガンティーノ神父という、イエズス会のイタリア人神父がいました。高山右近の霊的指導者であり、人々から非常に尊敬されている神父でした。彼は織田信長の信頼も厚かった。秀吉の信頼も厚い、石田三成の信頼が厚い、増田長盛の信頼が厚い。すなわち、オルガンティーノ神父は、内外ともに注目を強く受けている神父なのです。それで、神父たちが捕まって、牢獄に入れられて処刑されそうだと聞いた京都の教会の信者の代表たちが、ペトロ・バプチスタ神父に、オルガンティーノ神父は非常に人脈が厚いし、深いし、何とかオルガンティーノ神父に頼んで事態を回復してもらうようにしなさいとすすめた時に、ペトロ・バプチスタ神父は、──この人だけが聖人なり、オルガンティーノ神父は聖人になっていないのですよね──オルガンティーノ神父について、こう言うのです。「オルガンティーノ神父は隠れていて人前に出る勇気が無かったので、どうしてこの問題が解決できるでしょう」。イエズス会は、京都所司代の、今の警察署長みたいな人、前田玄以(法印)に少しの贈り物、賄賂を持っていったらどうかとはなしかけます。事態をうまく解決するようにお願いしたらどうかということです。これに対してペトロ・バプチスタ神父は、こんなのは偽りであり、教会は決してそんなことはしない。賄賂を贈るなんてもってのほかだと考えます。こんなのは、俗っぽい、世間に迎合している生き方だということです。お分かりですか。こういう物の見方の違いが、このような形で出てまいります。
  だから、ペトロ・バプチスタはこういうふうに言っています。私は秀吉と契約をしているし、秀吉は日本に残っていいと言った。彼が生きている限り、私は大丈夫だ。ちゃんと書いた契約があるから、ヨーロッパ的な契約の概念があるわけです。この契約があるから大丈夫だと信じています。彼も契約を守るし、私も契約を守る。それならば、私はここにいることが出来るはずだと。イエズス会の神父たちは、あなたは日本を知らない、日本人には契約を書いても、明日は全部捨ててしまうような民族なのですよ。契約という概念は、日本には無いと考えています。すべてが、こういう調子ですね。平行してうまくいかないという状況が生まれてしまいます。でも、熱心なのですね。貧しく生きる、何もいらない。可哀想な人があったら傍に行く、助ける、薬をあげる、病院を建てる。朝夕の祈りをきちんとしていて、修道者の服装もきちんとしている。ダランとした服装はしない。お金は一切使わない。持っているものは全部あげる。もう、真面目そのものの立派な修道士たちなのです。
  それと比べて見たら、イエズス会は、修道服も着ないで、こそこそと生活していて、信者の家に行ってご飯を食べて、まともにお祈りをしているのかどうかもよく分からないというような見方をしていました。信者たちが、こういうフランシスコ会の神父の姿に惹かれていった人たちも多かったというのも確かなのです。大局的にどれが正しかったかは、なかなか難しい判断です。例えば、「借りたお金は、104ドカードでした。神の愛によって、また、私が今いる、この様な状態を考えて、彼に行なった善事に報いるように願います」、死ぬ前に、「あの人にお金をかりていたのを思い出します。でも、いまお金が無いので、申し訳ないが、あなたが私の代わりに彼にそれを返してやってください」と頼みます。これが、ペトロ・バプチスタの最後の願いです。人間としての素晴らしさと、全体の流れをつかむ判断とは随分違うものと考えてもいいでしょう。
  イエズス会がだらし無いような印象を受けるかも知れませんが、そんなことは無いので、彼らの弁解をするために、ひとつ、彼らにまつわるお話しをさせてください。
  パウロ三木とヨハネ五島とディエゴ喜斎の三人がイエズス会の殉教者になる人たちです。パウロ三木を除く二人は死ぬ前に誓願を立てます。それまでは、修道院で働いていた単なる僕たちです。パウロ三木だけは伝道者で、神学生で、皆の前で説教をする説教師になっております。このパウロ三木とこの二人をどうにかして救いたいとイエズス会は考えます。秀吉は京都の信者の名簿を作らせていてその中には、もちろん、オルガンティーノ神父とか、モレフォン神父とかも入っていました。石田三成は、なるべく信者の数を減らして、大きな騒動にしたくないと思っています。そこで、名簿から信者を減らしていきました。そこで減らされていったのは、全部、イエズス会関係で、残ったのは、フランシスコ会関係の少ない人数と、イエズス会のこの三人でした。しかしイエズス会関係のこの三人を救うために何とかしようと、京都の信者たちが動きます。
  そして、信者の幹部たちが、お金を持っていって役人に渡したのです。でも役人は、お金は取れないと教会に返しました。これを聞いたのが、オルガンティーノ神父です。オルガンティーノ神父は、信者の代表を呼んで、そんなことをしたらいけないと叱りました。すべきではないと考えたのです。その信者の代表というのが、高山右近でした。高山右近は、オルガンティーノ神父からきつく叱られたということです。イエズス会は無思慮に、賢明さが無く、熱心さだけでは駄目なのだという見方をしています。
  フランシスコ会の神父たちは、人がどう思うかとか、そんなことは大切ではないと考えています。私が神様を思う心、私が人を思う心、この真実を貫くことが一番大事なのです。皆さん、どう思われますか。どちらを選ばれますか。今になったら、無思慮で、判断力が無かったかもしれない。でも、熱心なあの人たちは、聖人なのです。そして、うまく事態を解決しようとした人たちは、聖人にならなかったし、聖人にはならないでしょう。だから、日本二十六聖人の殉教というのは、非常に皮肉が多いのですね。
  高山右近の話もついでにいたしましょう。彼は一連の事件を見まして、自分の殉教の時は近づいたと思ったのです。細川ガラシャ夫人もそうですね。だから、殉教の時を迎えると考えて、高山右近は、自分の主君の前田利家のところにあいさつに行きます。これから殉教が始まるので、私も死ぬかもしれないと彼に言います。すると、前田利家は、そんなことは無い。あれはフランシスコ会関係の人たちだけであり、あなたはイエズス会と深いオルガンティーノ神父とかの関係が深いので、あなたの名前はリストから外されていて、死ぬことは無いと伝えます。その時に、右近はこういうことを言っております。実を言うと、私もフランシスコ会の神父と関係があって、彼らの話しを聞きに行ったことがある。聞いたところ、確かにキリスト教だし、イエズス会の神父から聞いたことと何の変わりも無い。むしろ熱心でびっくりしています。教えそのものは何の関係も無い。ただ、高山右近は、前の迫害の時にも、次の迫害の時にも、賢明さが、教会の指導部に足りないということを何度も繰り返すことになります。教会の指導部は、時代がどんなことがあっても、賢明に振る舞うことが大事なのです。
  このことで、本題から離れますが、ホイヴェルス神父様の「人生の秋」という本の一文だけ読ませてください。戦前のいろいろな事件、上智大学の事件とかいろいろなことがあったということを話しておりまして、そして、最後のところで、このように言っています。『戦後は、カトリシズムのために新たな運動が始まりました。けれども、その中のある人たちは、今度は何でも自由に、100パーセント、カトリックの風俗習慣によってやれると思うのですが、そうではありません。私はいつも、もっと注意深く進んだらいいと思います。実際に、戦前と今の時代とでは、それほど違いません。違うことは、もっと自由な空気があるということです。けれども、一般の習慣は、きれいに続いています。この点で、私どもはいつも、日本の風俗習慣を研究して、古来の良いものを大切にする心構えが大切です。』イエズス会の伝統というものが、四百年、こうやって続いているというのを、私は見るような気がします。

殉教の皮肉
  この殉教には、皮肉っぽいことが多いということです。私は非常に懐疑深い人間で、皆さんの殉教心を盛りたてる講師としては、向いていないのではないかと、自分では思うのですけれども、こんな話を聞くことも無かろうかなと思いましたので、話してみます。
  皮肉の一 イエズス会には殉教者が少なかった 人間的に振る舞おうとした人たちは、殉教に入らなかった。これをどう解釈したらいいのでしょう。だから、殊更に、殉教なんて、列福なんて要らないのではないかというふうに短絡に考えるということですか。事を荒立てないで、その時を乗り越えようにした人たちは、単なる陰謀家なのでしょうか。オルガンティーノ神父は単なる陰謀家なのでしょうか。もしも、彼をも日本教会の代表として殉教者に上げるとしても、決して不思議ではありません。見解が違うのは決して不思議ではありません。教会を愛する、二つの代表的な人物がいると考えてもいい。現代の日本のカトリック教会でも、社会運動の波があったり、神秘的な霊性の波があったりして、相容れないような感じがするのですけれども、両方とも、カトリックの信仰に深く根ざしたものであれば、それで良いのではなかろうかということです。
  ここで、パウロ三木の最後の話を聞いてみましょう。解決の糸口が見出されるかも知れません。「これらの者はルソンから来て、余が禁じた切支丹の教えを宣べて、長期間日本に滞在し、教会を建て、無礼な振る舞いをしたので処刑する」、秀吉の処刑文です。これに対してパウロ三木は、「ここにお出でになるすべての人々よ、私の言うことをお聞きなさい。私はルソンからの者ではない」、私はマニラから来なかった、フィリピンからの者ではない。「れっきとした日本人であり、イエズス会のイルマンである」と言明します。私は自分で選んでイエズス会という修道会に入った、修道士、日本人、神学生ということを標榜します。「私は何の罪も犯さなかった。ただ、わが主イエス・キリストの教えを説いたから死ぬのである。ルソンから来て征服をするという、そのために処刑されることは意としない。私は日本人として、自ら、自分で信じたからこの死を選びます」と。これが、パウロ三木の答えだと思います。
  皮肉の二 マティアス サン・フェリペ号事件が起こりまして、フランシスコ会修道院が警吏に取り囲まれます。そして、翌日、役人がフランシスコ会修道院の中に入ってきて、前に作っていたリストに従って名前を読み上げます。そして、“マティアス出て来い”と読み上げられました。彼は修道院の炊事係、コックであり、ちょうどその時に買い物に出ていて不在でした。それで、役人がマティアス出て来いと呼んでも返事がなかった。そうしたら、その修道院の隣に住んでいたマティアスという人が「マティアス、マティアス」と呼ぶのを聞いて、あなたが探しているマティアスではないけれども、私もこのフランシスコ会の修道院で洗礼を受けたマティアスですと言うと、役人は、面倒くさいので、どんなマティアスでもいいからということで、このマティアスを捕らえていきました。本命のマティアスは殉教しません。ピンチヒッターのマティアスが殉教します。これが、皮肉の二ですね。
  皮肉の三 フェリペ・デ・ヘスス 神様は気まぐれです。絶対に殉教しそうな、立派な、熱心な信徒会長のような人が、必ずしも殉教するとは限らないのです。何処か、その辺からヒョット入って来た人が、殉教する人になります。彼はマニラからメキシコに帰る途中、サン・フェリペ号にたまたま乗りあわせた修道士です。二十四歳。今からメキシコに帰って、司祭の叙階を受けることになっていました。メキシコではお母さんが祭服の準備をして待っていました。ところが、フェリペ号が遭難して、船長と一緒に京都に行きなさいと言われ、京都に行って修道院に入って居るとき、フランシスコ会員が捕まえられるということで、彼を捕まえられて牢獄に入れられてしまいます。そして、33日間歩いて、長崎の丘で殉教するということになります。しかも、一番最初に殉教するのです。足台の上にのって、首に縄がつけられます。彼の場合、この足台と首縄の間隔が合わなくて、彼が首に縄をつけた途端に足を宙にういてバタバタさせるものだから、最初に殺してしまえということで、一番最初に殉教することになります。これはフェリペ・デ・ヘススの殉教です。フロイスは面白いことを言っています。「わが主はその計りがたい摂理で、このような光栄ある死をお授けになった。あるいは、フェリペが殉教するためにフェリペ号が難破し、秀吉が迫害を行なった」フェリペ・デ・ヘススがマニラからメキシコに帰る途中に捕えられた、神様はフェリペのために殉教を準備したのだとの見方です。殉教というのは非常に気まぐれなのです。長く働いて、熱心だから殉教したのではなくて、たまたま居合わせたからです。二番手でいいし、たまたま、偶然でもいいのです。神様は自分の愛する者としてだれでも迎え入れます。
  皮肉の四 ペトロ助次郎(助四郎) オルガンティーノ神父は、二十四人が長崎までの道を行く時に、必要なものがあるかもしれないということで、ペトロ助次郎という者を彼らに付けました。彼はそばを歩いて、殉教者に必要なもの、水が欲しい人に水を渡すとか、いろいろ、手伝うためでしたった。ところが役人が来て、
  「お前は信者か」
  「はい、キリスト信者です」
  「それじゃ、ついでに中に入れ」ということで、
  二十六人の中に入ってしまいます。
  ペトロ助次郎。みんなを助けていたから、「助」ける。「次郎」、太郎じゃなかったから「次郎」。二番目に入った助次郎。こんな皮肉もあります。

「聖体の年」にちなんで
  今年の聖体の年にちなんで、彼らがどんなにご聖体を望んだかをお話して終わりたいと思います。
  まず、残された手紙の中で、このようなことを言っています。マルチノ神父の手紙です。「日々の糧がそれを食べる者の肉体となるように、この聖なる秘跡を受ける人々は、その肉体と霊魂は、霊的に、また非常に高度な方法によって、イエス・キリストの肉体と霊魂になるであろう。従って、長崎で磔にされることを確信して、そのことによって、多くの拷問を受けても、それに耐えうるための準備をしよう」。二つの考えがあります。ひとつは、聖体が欲しい、イエス様をいただきたいという思いです。いかしても死ぬ前に頂きたい、この熱い思いですね。わたしたちは何と恥ずかしいのでありませんか。教会に来たら、当然のようにご聖体を受けて帰っていく、聖体の意味も何も考えない、現代の教会の信者たちの群れが、恥ずかしくないでしょうか。
  ご聖体を受けられないと分かった時に、彼らは二つめのことを考えたのです。「わたしがライオンに喰われるか、やりで突かれるか、カラスに食われるか、鳥についばまれるか。その体こそキリストの体なのだと考えます。私はキリストの体と、殉教によってひとつになる」という見方をしたということですね。イエス・キリストのご聖体をいただくことを強く望みます。できない時には、この私が捧げるこの体が、キリストの体とひとつになると信じています。これが私の体、キリストの体なのです。昔、アンティオキアの聖イグナチオは、ローマに行って、ライオンに食べられる。それを、「どうぞ私が食べられないように勧めて牢獄から出すようなことをしないで下さい。私はご聖体をいただけませんけれども、私をライオンが食べるその時に、私自身がキリストになります」ということを言っています。
  「どうか、ご親切がかえって私に迷惑にならないようにお願いします。私を獣のえじきにして下さい。それが神に到達する道なのです。私は神の穀物であり、獣の歯に砕かれてキリストの汚れないパンとなるのです」。日本二十六聖人の手紙を読むと、聖体についてたくさん書かれています。パウロ三木は名古屋から長上に手紙を書きます。ご聖体を頂きたいと。唐津でも聖体を頂きたいと願って、もらえません。二月四日、死ぬ前日、彼杵の港で、パシオ神父と、ロドリゲス神父に、ミサに与かりたい、ご聖体を頂きたいと願います。許されません。この熱意が分かりますかね。ミサに与かりたい。ご聖体を頂きたいという熱烈な望みは、今のわたしたちには分からないのです。ただ、彼杵で、非常に感動的なことがありました。あれだけ争ったイエズス会とフランシスコ会の神父、ロドリゲス神父とペトロ・バプチスタ神父は、彼杵で別れるときに、お互いに抱擁してゆるしをこいます。ペトロ・バプチスタ神父は、自分たちの無思慮のため、皆さんによく相談しなかったことをおゆるしくださいと願います。そうしたら、ロドリゲス神父は、私たちがどれ程あなたたちを理解しないで厳しく批判をしたかをゆるしてくださいと頼みます。殉教というのは和解への道なのです。だんだん清められていくのです。だんだん。本当に、もう神様しかいないと分かっていくのです。そして、ご聖体を頂くことだけが最後の望みになっていくのです。それも与えられない、これが殉教なのです。
  彼らにとって、それで、死ぬことが聖体と一緒になることだということですか。パウロ三木は、彼杵においても願いますけれども、できないと分かります。管区長のパシオ神父は、長崎なら出来るだろうと、最後の望みをかけるのです。ご聖体を持って来ているのですけれども、役人がゆるさないから、出せないのですね。「また、全員死ぬ前にご聖体を拝領することを望み、半三郎がそのための時間を与えられたことを約束した事などを話した。でも、出来なかった」でも彼らには、最後に出来ることがあります。それは、ゆるしの秘跡に与かることでした。彼杵から長崎の時津港に渡りまして、時津港から旧浦上街道を通って、西坂の丘まで歩いていくことになります。神父たちは歩きながら告解をしあいます。修道士たちはそれが出来ません。ご存じでしょうか、長崎に片足鳥居というのがあります。原爆で片足だけ残った鳥居です。そのところに、昔、浦上のハンセン氏病の病院がありました。その病院にたちよって、パシオ神父が来て、パウロ三木たちの告解を聞きました。ところが、出発前に彼らは耳を切られていて、被っている帽子をぬぐと、耳たぶから血が流れ出してしまいます。手は縄で縛られていますから、自分で帽子が取れないので、それで、パウロ三木は、パシオ神父に、告解する前に帽子を取って下さいとお願いをします。その時に、パシオ神父は、こういうふうに書いています。「他のパウロのように、キリストのために結ばれているのを見て、まだ治療していない耳の傷跡から流れ出た血の染み付いた着物を見て、憐れみと同時に、深い信心と、なぐさめを得た」。こうして、告解をした後に、また帽子を被せてもらって、血を流したまま、西坂の丘に歩いていきます。片足鳥居から西坂の丘までは、歩いても、ものの十五分から二十分もかからないのです。
  実を言いますと、これで十字架ということを、どのように処刑されて、どのように放置されたかということをお話しようと思いましたけれど、時間なので終わりにします。
  一番最初に言いましたけれど、皆さんを信心に駆り立てる話ではなくて、何か人間のドロドロとしたけんかばかりの話でした。しかし、これらを通してでも、最後に、主イエス・キリストのからだ、血になる、こんな信仰を持って死んでいったということは、大きななぐさめとなります。これは、充分黙想する価値となります。それから、私たちがどれ程理解も何もしないで、習慣的に、キリストのからだ、ミサ、ゆるし、秘跡、これらのものにあずかっているということを反省するいい材料を、この二十六聖人の殉教は示してくれていると信じて止みません。長い間、ご清聴ありがとうございました。

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