「四旬節第5主日」(B年) 説教
2012年3月25日・加藤 英雄師


 

  今日、聖書は新しい契約について語られます。
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ時が来ると主は言われる。エレミヤはBC627年預言者の召命を受けました。BC6226年にはよしア王の申命記改革があります。そしてBC587年にはバビロン捕囚があります。エレミヤはそのすべてを目の前に見ていました。主はエレミヤに言われます。全く新しい契約を与える。古い契約はシナイ契約。エジプトからの脱出。そして、十戒、契約法典の授与。この契約でわたしが何であるかを示した。わたしは「あってあるもの」。この契約はわたしの心、わたしの思いのうちのうちに歩みなさい。イスラエルよ、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしの民となる。わたしはわたしの心を石の板の上に刻んだ。書物に記した。新しい契約とは石の板、書物に記すのではない。あなた方の胸の中に授ける。心に記す。あなたがたはわたしの契約を守らなかった。破った。人は心に思うことは、幼い時から悪いのだ。(創世記8・21、エレミヤ13・21)律法を守るから神様と結ばれるのではない。神様の思いにわたしたちの心と体が結ばれている。だからわたしはあなたがたの神。あなたがたはわたしの子なのである。あなたがたの心と体を造り直します。神様を見つめる時心が癒されます。心が神様に返ります。律法を知ることによって心が変わるのではなく、神様の恵みによって変わるのです。律法が教えとなってはいけない。聖書が教えとなってはいけない。新しい契約がなければ人は変わることが出来ない。主は言われるのです。新しい契約を結ぶ時が来る。

新しい契約はイエス様によって知らされ、イエス様によって導かれました。神様はわたしたちにイエスを送られたのです。イエスはキリスト。イエス・キリストは完全な方。キリストを縛るものは何もない。キリストのうちに無がある、空がある。キリストは神によって満たされている。父の思い、御心が聖霊によってキリストを満たすのです。キリストは神様との全くの交わりに、全くの従順に完全なものになりました。
キリストは主から示された苦難の盃を飲まれました。屈辱、侮辱、嘲笑、血だらけになるほど打たれた鞭うち、そして死をも受け入れました。従順、全くの従順でした。
安息とはカナンの地をイスラエルのものとすることではない。神に国の実現ではないか。神の国がイスラエルに成就、実現されるのではなく、神の国に向かって歩んで行くことではないか。神の国に向かって歩いている、その道を歩いていることが神の国の実現なのです。神の国は神様の中にあります。神様に向かって歩いていることが神の国なのです。歩くとは、祈ること、自然、隣人のために働くことです。神様が示されたすべての出来事を受け取ることです。

神様の新しい契約がイエスによって示されました。イエスの姿を受け取りなさい。神様は言われるのです。わたしの愛を受け取りなさい。イエスの姿が神様の愛です。
人の子が栄光を受ける時が来た。天の父から与えられた栄光と示します。それは人々から負わされた屈辱、侮辱のうちにある十字架の刑です。十字架の上で命を奪われます。十字架の刑が天から与えられた栄光。それを今、示す。天の父の栄光を示す時が来た。
麦が茂っている。茂っている麦を楽しむ。しかし、麦は死んで大きな実を結ぶ。人のための実となる。麦は死んで人のための力となるのです。人の命もそのように、自分の命に死ななければ、何の実も結ばない。自分の命を捨てなさい。自分の命を大切にする人はそれを失い、自分を捨てたものは永遠の命に入る。
天の父よ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、天の父の思いを行う、このためにわたしはこの世に来たのである。
天の父が語られる。世にあなたを送った栄光、そして、再び栄光を現わそう。それは神の子が十字架にかけられる姿である。

この時こそ、世が裁かれるときである。
すべての人に問われます。あなたにとって愛とは何ですか。
助け合うとは何ですか。
あなたの隣人は誰ですか。
イエスの十字架があなたにとって何ですか。

 



戻る